出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B07DNG6NZR/?tag=cinema-notes-22
年齢を思わせないバイタリティで良作映画を作り続けるクリント・イーストウッド。
彼はこのところ実話に基づいた作品を継続して制作しています。この「リチャード・ジュエル」もその路線を踏襲する実話ものです。
1996年アトランタ五輪開催中に起きた爆破事件で会場警備をしていた警備員リチャード・ジュエルが味わった地獄。
爆弾を発見し、いち早く公園から市民を避難させた英雄の立場から一転、容疑者として「晒し者」に。
逮捕・起訴こそされていませんが、なぜこのような冤罪が生まれてしまったのしょうか。
今、我々の周りで起こっていることに似ている。
英雄的行動をとった男が濡れ衣を着せられた。アメリカ史に残る間違いだ。
引用:http://wwws.warnerbros.co.jp/richard-jewelljp/news.html?id=20200117001
イーストウッド監督はこのように語っています。
この映画で冤罪事件の真実を明らかにし、SNS時代のこんにち危険は更に増していると警告しているのです。
ここでは、何がリチャード・ジュエルに対する冤罪を生み出したのかを中心に映画の主張を考察していきます。
リチャード・ジュエルの性格
この映画の中で重要なファクターとなっているのが、主人公リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の性格です。
几帳面で真面目、よく気が付き優しい。正義感が強く、公権力(法執行官)への盲従ともいうべき極度の憧れを持っています。
そんな彼を、一般人が見るとどこか波長の合わなさを感じます。そういう彼の性格に皆が振り回されることなります。
純粋なのか鈍感なのか
濡れ衣を着せられてからのリチャードの捜査に対する姿勢は、ワトソン弁護士でなくても観ていてイライラします。
FBIが電話の声を録音するシーンでは、観客は「これは絶対にFBIはリチャードを犯人に仕立てようとしている」と思うでしょう。
家に来たワトソン弁護士が止めさせますが、リチャードは純粋に捜査に協力したかっただけなのです。
自分が憧れる法執行官の最高峰、FBIの特別捜査官を頭から信じて疑わないのです。
彼らから頼まれれば嫌とは言えないリチャードの性格を見越してのFBIの作戦だったのに。
このように、正義を行うことに何の躊躇も疑いもないリチャードはその性格が強すぎて、時として他人とトラブルを生んでしまいます。
あまりも純粋過ぎた
最初の大学をクビになったのもリチャードが寮の学生などに対しあまりに厳格過ぎたためでした。
この映画の中でも度々出てくるのですが、何かが起きたらまず「プロトコル」を遵守する、というのがリチャードの信念。
「プロトコル」とは「決められた手順」のこと。いわばマニュアルです。
自分は法執行官である、という強烈な自覚が「決められたこと(特に法律)から逸脱させない」という性格を作り上げてしまったのでしょう。
その頑固さ、一徹さが普通の人から見れば「変わり者」とみえていました。
また太っているという事が「愚鈍さ」を印象づけ、それが大衆の目には「怪しいやつ」という外見からの決めつけに繋がってしまっています。
故に、そこの学長の彼の行動に対する証言が後々FBIのプロファイル捜査に決定的な要素となってしまうのです。
プロファイリング捜査の危うさ
この映画の2つの大きな要素である「メディア・リンチ」と「プロファイリング捜査」について考えていきましょう。
犯人が仕立て上げられる仕組み
FBIが犯罪者の人物像を推察する手法を本格的に取り入れたのは1980年代ともいわれています。
リチャード・ジュエルの場合「欲求不満の白人で警察官に憧れヒーローになりたがっている男」というプロファイリングに引っかかります。
これに先にも書いたトラブルがあって辞めた大学の学長が、彼ならやりかねない風の性格印象を証言、決めつけ作業はどんどん進みます。
繰り返しますが、これはあくまで「推論」に過ぎません。科学的証拠、例えばDNAとか指紋、音声、目撃などの科学的な証拠はまだ無いのです。
プロファイルは捜査上の参考情報であり、決定的なものではありません。捜査機関が先入観で犯人を決めつけてはならないのは当然です。
しかし、当時のアトランタのFBIには焦りがありました。