「何よ、その言い方! (中略)あんたのお父さんの方がよっぽど勝手じゃない。一人でいなくなって。
私が幸せになっちゃいけないの?」
引用:誰も知らない/配給:シネカノン
いま、母と子供が置かれた状況で、母が一番口にしてはいけない言葉です。この言葉には母親としての愛情は微塵も感じられません。
というか、母はそのことに気がついていない、という絶望感。
新しいアパートに引っ越して来た時の夕食の会話を観ていると、子供たちは明らかに母に愛して欲しい、と願っています。
明だって、母の代わりに家事をするのは母に愛されたい、自分を認めてもらいたいと願うからでしょう。
しかし母はそうした子供の気持ちを簡単に裏切ります。上っ面が調子いいだけに観ている人は余計に腹が立ちます。
こうして観客のシンパシーは子供側へと引きずられていくのです。
父親たち
明はお金がなくなり、それぞれの父親のところに金の無心に行きます。
父親たちは調子のいいことをいい、小遣い程度の金を渡すだけ。誰も責任を取ろうという気はありません。
大人はいい加減だ、明は母と父親らの態度に接し、ますます自力で生きてやる、と覚悟を決めたのではないでしょうか。
子供たちを取り囲む大人たち
明が知り合う家族以外の人々。コンビニの店長、明がゲーセンで知り合った男友達。引っ越しの時に挨拶した近所の家族。
みなそれぞれの何らかの形で明を知っているのに、距離を縮めようとしません。
それが今の社会。回りの大人たちは「誰も知ろうとしない」のです。
カウンターに位置する三人の年長者たち
少年野球の監督、コンビニの女性店員、そして紗希。この三人の年長者は明に対して大人社会の希望として描かれているようです。
特に紗希は、ゆきを一緒に埋めに行き、そしてラストシーンでは明たちと一緒に生活する覚悟が見えていました。
彼女は子供たちを自分ごととして捉えている明たちの希望のメタファーであると捉えたいところです。
しかし見方によっては果てしない「誰も知らない」世界の闇のメタファーなのかも知れません。
ゆきはなぜ死んだのか
ゆきの死は本作を象徴する重要なシークエンスの一つです。
映画冒頭ではトランクに入って引っ越してきたゆきが、明と紗希によって羽田に運ばれるときには一回り大きなトランクが必要でした。
親はなくとも子は育つ、けれど愛情が欠乏すれば死んでしまうのだという究極の悲劇の提示と読み取ることが出来ます。
ゆきは椅子の座面に立って背伸びしているカットがあるのみで、転落して頭を打った、など詳しい死因は説明されていません。
これが是枝マジックです。
背伸びするゆきの足元のアップの後には、ベランダに置かれたカップラーメンの器に栽培されている野菜(のようなもの)が映ります。
お腹が空いたので、お兄ちゃんお姉ちゃんたちが帰ってくるのを椅子に立って外を眺めていたのでしょうか。そして転落したのでしょうか。
それとももともと体が弱かったゆきは、栄養失調で「餓死」状態だったのでしょうか。
その死因は観ている人に委ねられています。もちろん、ゆきを殺したのは大人たちに他ならないという描写だといえるでしょう。
本作のテイストが物語ること