この映画には心底からの悪人という人物は出てきません。悪人を仕立てれば物語はむしろ明解になるでしょう。
是枝監督は何故それをしなかったのでしょう。そのあたりを考えてみます。
母や父を断罪せず、大人を(表面上は)告発しない
この映画で誰が悪いのか、という指摘はなされていません。それは観ていれば分かるからです。大人たちの不作為については特に。
是枝監督は、明たち子供らに自然で健気な演技をさせることによって「裁かず」に「告発」しているのです。
あえて悪役を置かないことで映画全体を「日常」的色彩の濃いものとし、それを観ている人が自分の事として引き寄せて観てくれるのではないか。
監督はそう考えたと思えるのです。
逆を描く
どこか夢を見ているようなタッチ(ファンタジックとさえいえるかも知れません)を加味することで、逆に絶望を際立たせていると見て取れます。
聡明で、正直な明が、本作で一度だけ切れるシーンがあります。
弟・茂がカップそばを食べたいというので、明は、なけなしの金を払ってカップ麺を買い、作ります。
しかし茂はどこかに遊びに行ってしまっていません。友人とラジコンで遊んでいるのを見つけ怒ります。
これは普段大人しく優しい明が切れることで、明が抱えている絶望を表現しているシーンです。
賢く優しいままの明では映画に主張が出ないからです。
ラストが物語る子供らの未来
ラストは、ゆきを埋めて戻ってきた明たちの生活が、ゆきの代わりに紗希が加わり、何の変化もなく続いていくように描かれます。
そして後ろ姿の長いストップモーション。
それは、本作を観た人がそれぞれの答を見つけて、という監督のメッセージであることがひとつ。
そして、明ら子供たちはこれからも強く生きていく、という「救い」のメッセージなのでしょう。
佳作を決定づけた是枝演出
是枝監督は子供やこれは、というキャストに台本を渡さず、シーンごとに口でセリフを伝え、演者に役を消化させます。
そうして生まれてくるアドリブを歓迎する演出が有名です。
本作でも、子供やYOUには台本を渡さず、口頭でセリフと大まかの演出方針を伝えます。
そうすることで、キャストの中に自然な空気が生まれ、映画の主張にリアリティが生まれてくるわけです。
さらに本作では日常の何気ない(明の料理とか洗濯、子供らが室内で遊ぶ光景など)光景を画角を無視して手持ちカメラで撮影。
しかも、ワンカットがとても長いのです。そうした演出を通してもナチュラルさとリアリティを獲得しているといえるでしょう。
「誰も知らない」のか?
タイトルは何を意味しているのか、今一度考えてみましょう。子供らの存在を「誰も知らない」。ゆきが死んだことを「誰も知らない」。
果たしてそうでしょうか。「知っていて知らないふりをしている大人のずるさ」「知ろうとしない父親たち」を告発している反語と取れます。
明たち子供らの生活を是枝演出で見つめると、私たち大人が突きつけられているものが見えてくるような気がするのです。
このところの是枝監督のテーマは一貫して「家族」です。
例えば「万引き家族」、「歩いても 歩いても」、などを鑑賞することで、本作の主張、監督の狙いがより明確になってくるのではないでしょうか。