みんな、敵だぎゃあ!いつも食うか食われるかだ!だから俺には牙が要るんだぎゃ!!」
引用:「アシュラ」/配給:東映
いかがでしょう?アシュラだけではなく時代が変化し現代社会になっても親に見捨てられ同じように思う人もいるのではないでしょうか?
ただし、その中であっても迷わず人の道にはずれない生き方があると教えてくれたのが法師でした。
己の中のケダモノと戦え
ささくれ荒ぶるアシュラは再び法師と出会います。
法師は年端もいかぬアシュラがこの世に生まれたことの苦しみを感じていることに人としての心の成長をみました。
「確かに人は皆、ケダモノを抱えておる。だが他のケダモノとは明らかに違う。
人には心がある。人はケダモノの道を歩けば歩くほど苦しくなる。お前がさっき苦しいと言ったのは、人の証じゃ。」
引用:「アシュラ」/配給:東映
そして、人になればなるほどケダモノの道を行けば「後悔」という苦しみが生じると諭し、自分の左腕を切り落とし差し出したのです。
極限の状況に追い込まれ魔がさしたとしても、人の道をはずれればそれは後悔や自責で苦しみながら生きなければならないということです。
そして、人を憎むまず己の中のケダモノと戦い勝つこと以外に「人」としての苦しみからは解放されないと諭しました。
人として生き、人として死ぬ意味
アシュラは水害と干ばつで壊滅状態となった若狭のいる村へ戻ります。そして、地頭の馬小屋で馬を殺しその肉を若狭に届けるのでした。
やり方はまちがっていますがそれは、アシュラが若狭に助けられたことへの恩を返しのようにも思えます。
そして、大切に思った人を助けたいという慈しみの心を持ったともいえるのではないでしょうか?
若狭の人としての理性
若狭はすでに飢餓状態の極限にいながら、アシュラの差し出す肉が馬肉だと信じられず、人肉だと思い込み食べることができませんでした。
アシュラがいくら馬肉だと言っても信じず、死なないでほしいと哀願しても断固拒絶します。
「人肉を食うものは犬畜生よりも劣る…人肉を食べるくらいなら死んだ方がまし。
それを食べてしまったら(たとえ馬肉だったとしても)私は後悔をしながら生きなければいけない。」
引用:「アシュラ」/配給:東映
この言葉は法師がアシュラに諭したことそのものでした。若狭は自分の中のケダモノと戦い、人としての心を保とうとしていたのです。
若狭の死がアシュラに教えたこと
若狭は餓死か衰弱死したと思われ七郎らに埋葬されるために運ばれていました。そこにアシュラはさしかかり通りすぎます。
アシュラのほほには一筋の涙が流れました。このアシュラの流した涙の意味はただ若狭が死んでしまったことへの悲しみだけではないでしょう。
若狭は己の中のケダモノと戦い勝って人として死んだとアシュラは理解したから涙が流れたのではないでしょうか?
アシュラの生きる道
アシュラは法師と共に仏門の修行に出たのでしょう。最後に僧になったと思われるアシュラが仏像を彫っている姿が出てきます。
アシュラの彫る仏像の顔は若狭と似ているのではないかと想像させます。
法師の教えそのものを若狭が自分の身をもって見せたことがアシュラを人としての道に導きました。それは菩薩の行いと同じだからです。