長年除雪車を運転してきたからこそネルズは模範市民賞を受賞しました。泥臭くても一つのことに一生懸命です。
ホワイトブルに銃を向けられようとも、その時にはすでに息子の復讐は果たしていました。
つまりホワイトブルが銃を向けているのは、「復讐者ネルズ」ではなく「除雪車を運転する一般人のネルズ」なのです。
復讐さえ果たせば、殺人を経験したことがある模範市民賞受賞者。
模範市民は殺人などしませんが、殺人を経験したことがあるので銃ごときには驚きもしないのです。
生きる目的が分からない
最愛の息子カイルは殺され、愛していた妻とは別れました。ネルズ自身の年齢から考えても、最早何を目的に生くべきか分かりません。
それまでは息子の復讐が生きる目的でしたが、バイキングの死を見届けた今、ネルズの復讐は終わります。
つまり、生きる目的を見失ったのです。息子もおらず、妻もおらず、生きる目的を失った人が銃を向けられたところで、驚くわけありません。
愛する息子を失った父親の悲しみは共鳴する
映画内で登場する主なリーダー格3人(ネルズ、バイキング、ホワイトブル)には一つの共通点があります。
それが「愛する息子を失った(誘拐含めて)」こと。
バイキングはネルズとホワイトブルによって殺されますが、ネルズとホワイトブルの共通点は互いに共鳴しました。
息子を失う父親の悲しみは伝播する
ホワイトブルがネルズが運転する除雪車に乗り込み、銃をつきつけます。
しかし、そのネルズの横顔を見ていると「息子を失った父親の哀愁」がホワイトブルには感じ取れました。
同じ境遇であるホワイトブルは、そこでネルズの哀愁を感じ取った結果、引き金を引くことをためらいます。
息子を失った悲しみの共鳴により、ホワイトブルのためらう気持ちはネルズに伝播しました。
その結果、ネルズはホワイトブルが引き金を引かないと確信し、除雪車を走らせ続けるのです。
原作『ファイティングダディ 怒りの除雪車』
本作が息子を失って怒り狂う父親が活躍する映画であることは、原作『ファイティングダディ 怒りの除雪車』から分かります。
原作は本作と同じ監督のハンス・ぺテル・モランドで、舞台はノルウェーですが、内容については大きな差異はありません。
原作の「ファイティングダディ」の名称から見ても、作品内容が戦う父親像をクローズアップしていることが分かります。
戦う父親はネルズであり、バイキングであり、ホワイトブルでもあります。
父親たちの境遇は映画のどこかで共鳴する内容であることは、原作のタイトルからも明らかです。
あくまでダークコメディにこだわる死人の告示
映画の一番の特徴は死人が出たときに宗教マークとアイコンが掲示されることです。
本来死人が出たときには暗い気持ちになるはずです。
しかし勘違いを発端として次々に死人が出る度に出る死人の告示には、何か笑いのようなものを感じます。
実は、その笑い=コメディ要素こそが製作側の意図なのです。
死人の告示に含まれるコメディ要素1:反復
例えばすれ違いであったり、自虐であったりと、笑い(この場合コメディの意味で)はさまざまな要因から引き起こされます。
その一つに何度も登場することによる笑い=反復も、笑いの要因となり得ます。