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当時としては珍しくクラウドファンディング出資で2016年に公開され口コミで大ヒットした『この世界の片隅に』。
映画冒頭と最後に現れた人さらいのバケモノに対し、作中では明快な言及や説明がありません。
映画全体を通しても唯一ファンタジー要素が出ている不可思議なシーンでした。
「そういえばあのバケモノは一体何だったのだろうか」と思われた方も多いのではないでしょうか。
ここでは漫画版と映画版の両方を通してこの謎のバケモノについて考察してみました。
またアニメだからこそ出来た『この世界の片隅に』の不思議にみずみずしい世界観についても掘り下げてゆきます。
漫画版から読み解くバケモノの正体
漫画版の『この世界の片隅に』を読み進めていくと興味深い筋があります。
すずが描く漫画に兄・要一をモデルにした『鬼イチャン冒険記』というものが出てきます。映画版にもちらっと出てくるものです。
それは戦死したと報告された兄・要一についてのおかしな話でした。その中で要一は墜落した戦闘機の残骸で作った家にワニの嫁と住んでいます。
そこで描かれた要一はボーボーのひげと髪の毛という点でバケモノと似通っていました。またバケモノの背負った籠にはワニが入っています。
そのワニもまた、何かと厳しかった兄(アニ)に粗暴さと言葉の響きという点で通じ合います。
このように漫画版からはバケモノがすずの兄・要一であることが明白に読み取れるのです。
バケモノが兄・要一であることで出てくる疑問点
漫画版からバケモノが兄であることは明確ですが、それによって2つの疑問点が出てきます。
時間軸が前後する理由
すずの漫画『鬼イチャン冒険記』の兄をモデルにしたバケモノが映画の冒頭に出てきたことは時系列的に前後します。
すずと周作が出会ったのは幼少期で、要一はまだ戦争には行っていません。それなのにすずと周作の前に青年期に戦死した要一が現れるのです。
ここからは、すずが大人になってから幼少期の思い出を現状と混ぜ合わせて創造したことが読み取れます。
映画でもバケモノとの思い出が白中夢のようだったとすずは回想しています。彼女はずっとぼんやりした子で虚実混交の世界を生きていました。
つまり、すずの想像の世界だったので時系列も歪み、違う時間軸が混ぜあわされたというわけです。
すずは周作との思い出になぜ兄を登場させたのか
バケモノがすずと周作を引き合せたことには疑問がわきます。すずはその粗暴さから兄をずっと恐れていました。
それなのに、なぜ兄を周作との大切な思い出の中に登場させたのでしょうか。それは彼女が兄を根本的には慕っていたからではないしょうか。
すずは兄の遺骨が石だったことから兄の戦死を信じません。しかしその感情の中には兄に生きていて欲しいという希望もあったでしょう。
それが『鬼イチャン冒険記』として昇華されたのです。周作との幼少期の出会いはすずにとって人生最高のときだったはずです。
すずは想像の中でそのきっかけを兄が作ってくれたようにしました。
そこにはいつまでも兄に自分の人生を導き見守っていてほしいという彼女の願望があったのではないでしょうか。
映画から読み解くバケモノの象徴性
映画だけを観るとバケモノの具体的な正体はつかめません。しかし深く考えるとシンボリックな意味を持つようになるのです。
戦争なき居場所を探す道先案内人
『この世界の片隅に』をひも解く重要なキーワードは「居場所」です。作中には「居場所」をテーマに描いたシーンがよく出てきます。
- すずの「居場所」である家が燃えないように焼夷弾の火を消すシーン
- 爆撃で家を失ったことで茫然とした市民の背中だけを映したカット
- 家を失った戦災孤児をすずと周作が引き取るラストシーン
このように激しい戦時下の人々にとって自分の居場所は極めて大切なものになります。それがなくなれば人は哀しい放浪者になります。
すずの描いたバケモノはそんな戦時下の放浪者をどこかの理想郷に導くガイドのようにも見えます。
実際バケモノは望遠鏡を持っていて、すずにいろんな景色をながめさせました。