ジョーの口から生々しく語られる実体験の言葉にセリグマンは打ちのめされたのではないでしょうか。
どれだけ頭でっかちの知識で装飾し解釈しても所詮机上の空論でしかなく、ジョーに太刀打ち出来る強さはありません。
実際に彼が口にする綺麗事や知識はジョーの前に悉く打ち破られていきました。
セリグマンは自分の理性が崩れていくのを感じ取り、それまで必死に抑圧された性欲が解放されたのでしょう。
拳銃=男性器の象徴
突然性欲を解放してきたセリグマンに対し、今度こそジョーは拳銃の引き金を引いて殺してしまいます。
性の話と絡めるならいうまでもなく拳銃は男性器の象徴であり、それを敢えてジョーに使わせているのです。
つまりジョーはもうセクシャリティを排除したことで拳銃=男性器を武器として使える領域に到達しました。
どこかで「女性」であることから逃げられなかったかつてのジョーとの完全な訣別を意味するのです。
永遠の孤独の始まり
セリグマンを拳銃で殺したことは人としての一線を超え、これから始まる永遠の孤独を意味します。
確かに彼女は女性というセクシャリティを排除したことで性に依存はしなくなったことでしょう。
しかしそれは殺人という犯罪という重い代償と引き換えの決して喜ばしくはないものです。
ここにトリアー監督の厳しさが垣間見え、自由とは同時に社会からのはみ出し者であるという皮肉が込められています。
ジョーはこれから一生続くことになる永遠の孤独と犯罪者というレッテルを抱えて生きることになるのです。
性の問題は「愛」で解決出来るか?
性欲をどこまでも現実として淡々と描いた本作は性の問題を「愛」で解決出来るか?という問いにもなっています。
こうした男女の性が絡む問題はとかく医学の知識や男女の恋愛などに落とし込んで解決したがるものです。
しかし、ジョーのように欲望に忠実に生きている場合医学の知識や社会が作り上げる恋愛では解決出来ません。
セックスとはあくまでも恋愛においてはお互いの愛を伝える手段の一つなのであって絶対ではないのです。
その差を分からず上辺だけの浅い知識や解釈で解決しようとしても結果はセリグマンのようになります。
ジョーはその鋳型にハマることを良くも悪くも最後まで避けた稀有な主人公像なのです。
常識を疑え
いかがでしたでしょうか?
本作は余りにも扱っている話題が話題だけに確実に見る人を選ぶ映画であり、万人受けはしません。
しかし、奥底に描かれていたのは結局恋愛や性に関する“常識”を疑えという強いメッセージではないでしょうか。
社会の中で作り上げられる男女の恋愛という価値観、そして社会の中で何故だか悪しきこととして描かれる性欲。
しかし、そのような性や愛に関する問題こそ常識という名の綺麗事では解決出来ないケースは沢山あります。
昨今どんどん時代の変化と共に社会そのものの価値観や常識も大きく変化している真っ最中です。
ならば、性や愛に関する価値観や常識も大きく変化していってもおかしくありません。
本作はそのようなとても大切なことをやや過激ながらも大胆なアプローチで教えてくれた怪作でありましょう。