そしてまた、人間がやったら殺人扱いされかねない行為をロボットが行うことで後味の悪さを半減しています。
あくまでもロボットはロボットであるという原則をしっかり守り切っているのは本作の白眉です。
延命措置の虚しさ
ポーシャの心情として見ていくと、単純に長い人生に疲れ果て何も生き甲斐を見出せなくなったからでしょう。
人間生きるということは何か目的ややることがあって初めて充実した人生を送ることが出来るのです。
しかし延命措置によって生き長らえたポーシャにはもうこの世に未練ややり残したことはありませんでした。
つまりポーシャは生きる意味をもう何も持っておらず、穏やかな日々を過ごしているだけなのです。
そのような宙ぶらりんな状態では生き地獄を味わっているのと何も変わりません。
そんな中途半端な状態を続けたくなかったからこそ彼女は装置停止を選んだのでしょう。
責任
最後の理由はアンドリューをして人間として生き人間として死にたいと決意させたことへの責任でしょう。
愛するアンドリューに人間が人間である素晴らしさを教えたのは間違いなくポーシャです。
ポーシャの存在があったからこそアンドリューは人間へ近づき、人間として生を全うしようとしました。
彼女とアンドリューは“死”という形でもって初めてその責任を果たしたことになるのです。
その魂の崇高さに感じ入ったからこそガラテアは尊敬と共に生命維持装置を停止しました。
死とは”区切り”である
本作では永遠の命の虚しさを問い、その上で死とは“区切り”であるという結論を出しました。
人間は限られた時間の中で精一杯自分の使命や役割を果たす、或いは果たそうとするからこそ人間なのです。
死というと悲しきことのように思われますが、しかし死があるからこそ人はそのゴールに向かって頑張れます。
そしてまた死によってこそ人間の尊厳は保たれるのであり、それがアンドリューの心を変えたのです。
これが本作における”生と死”の向き合い方とそこから導き出した答えではないでしょうか。
生きる
こうして突き詰めると、最終的に残るのは「生きるとは何か?」ということです。
それは生きた時間の長さではなく生きた時間の密度ではないでしょうか。
例え長く生きても一生平凡のまま終わる人も居れば、短くても歴史的偉業を残す人も居ます。
大事なのはどのような生き方をするにしても、そこにどれだけ充実感があるかということでしょう。
アンドリューは200年も生き長らえたロボットでありながら、それに見合う密度の濃い人生を歩みました。
単純に人間らしくなるだけではなく、もっと奥深い人間の素晴らしさについて迫っていったのです。
ロボットと人間の関係は色んな作品で問われてきましたが、本作はまた特殊なアプローチではないでしょうか。
時代を超え国を超えて尚愛されるよく出来たロボットSFの力作です。