ずっと日陰にいた彼の苦労が一つここで報われ、彼が手にした自由の象徴となりました。
しかし、この結末自体はいいとして問題はこの後の政治関連です。
国を乗っ取る
二つ目が王は都督を裏切って刺し違えたように見せたが末の国の乗っ取りです。
陰極まって陽生ずという形で図らずも彼は王様となりました。
しかし、心配なのはここからでこの結末を素直に喜んで良いのでしょうか?
影が身につけてきたのはあくまでも都督の代理として前線に出向いて戦う技術のみでした。
故に彼は政治をはじめとする王様に必要な帝王学を身につけてきたわけではないのです。
世の中には王には王、兵には兵の役割があって誰でもが王様になれるわけではありません。
小艾がラストで危惧していたように見える体の震えは何よりもそこではないでしょうか。
いつか裏切られる
そして三つ目に、裏切りの歴史を歩んできた影武者もまたいつか裏切られるでしょう。
王にしても都督にしても、他者を裏切った者はいつか自分が裏切られるのです。
都督と同じように影武者の人生もまた王や庶民の目を誤魔化し続けての人生でした。
一時的に光を見られたとしても影武者は影にいるからこそその役割を全うできます。
適材適所を履き違えて出過ぎた真似をした彼はいつか重臣や将軍達に裏切られるでしょう。
敵の敵は味方にあらず
このように見ていくと、本作が王・都督・影武者を通じて見せたかったことが見えてきます。
それは「敵の敵は味方にあらず」ということであり、これはモデルの三国志もそうです。
世間一般に知られている三国志のイメージは曹操が逆賊で劉備と孫権が味方同士でしょう。
しかし、この荊州争奪戦ではそうではなく劉備と孫権もまたあくまで敵でしかないことを示しています。
即ち詐欺師と同じように王の敵であった都督の敵となった影武者が国の味方というわけではありません。
共通の敵が居るからといってその人達を安易に味方だと信じるのは用心しておいた方がいいでしょう。
仏ほっとけ神構うな
本作が表向きのアクションとは対照的に泥沼の駆け引きを描いたことで一つのメッセージが見えてきます。
それは「仏ほっとけ神構うな」という教訓で、こういう利権のいざこざが一番の厄介事なのです。
しかし、歴史が動くときの半分以上が実はこうした泥沼の権力闘争で決まっています。
大事なのはそれらに近づくことなく如何に距離を取って冷静に自分を保てるかではないでしょうか。
その意味では小艾は決して強くないながらも一番適切な対応が出来ていたのかも知れません。
本当に大事な部分は表に知られることなく水面下で進むことを教えてくれたのが本作でしょう。
目に見える側よりも裏に仕掛けられた意図を読み解いていくと違った作品に見えることを教えてくれました。