また、自身が好きなことだけでは仕事に出来ず、様々な責任が伴うものだともいっているのです。
久里は壮介の歩んできた人生の背景を知らないのですが、彼の言葉はそれを彼女に感じさせたのでしょう。
恋心を別としても壮介の歩んできた人生は確かな含蓄のあるものとして久里の心に響きました。
久里には彼氏がいた
二つ目の理由として、久里には既にイラストレーターの俊彦という彼氏がいたからです。
つまり久里の中で壮介は端から恋愛の対象外であり、異性として見ていたわけではありません。
娘の道子がいうように女性が年上の男性に付き合ってあげることはよくあります。
二人は年の差カップルでも何でもなくそもそも最初から行きずりで知り合っただけの赤の他人です。
その現実を知らせるための布石・伏線として機能していたのではないでしょうか。
壮介のおかしさを強調するため
そして最大の理由は社長を決意した件と併せて壮介のおかしさを強調するためでしょう。
銀行マンだった時には目立たなかった壮介の本性がこのセカンドライフで示されています。
東大卒という肩書きに惑わされがちですが、彼は実はおっちょこちょいのいじられキャラです。
妻と娘からは欠点を容赦なく指摘され、やることなすこと調子に乗ってやると全部上手く行きません。
しかし、ラストのラグビー仲間との話がそうであるように仲間に必要とされると上手く行くのです。
不思議なのはこれだけの失敗をしても全部「笑い話」として収まってしまう所でしょう。
演出や作風もあるとはいえ、壮介はダメ人間ではなく欠点や失敗を魅力に変えられる人なのです。
やめることで自由になれる
こうして見ると本作は一見定年退職後の一老人の悲哀だけを描いているようですが、それは違います。
壮介のかっこ悪い生き様が魅力的に映るのは彼がどんどん辞めることで自由になるからです。
東大卒という肩書きが邪魔になって就活をやめ、仕事も失敗して辞め、そして夫婦の共同生活すら辞めました。
しかし、彼は辞めれば辞めるほどどんどん自由になり、本来の自分へと近づいていくのです。
表向き現実のシビアさを描きつつもそれがコメディに収まるのは奥底で人間の本質を描いているからでしょう。
終わった人には終わった人なりの生き様があって、様々なものを手放すことで本質に近づいていきます。
本作が田代壮介という一人の元銀行マンと彼を取り巻く人達の悲喜交々を通して描いたのは執着を手放すことでした。
自分らしく生きる
こうして見ると、本作が一番に伝えたかったのは“自分らしく生きる”ことではないでしょうか。
これは日本人に一番欠けていながら、しかし同時に一番必要な筈の要素です。
日本人の中には滅私奉公という、組織の為に自分を押し殺して当然という考えがあります。
しかしその生き方をしてきた壮介はこうして定年退職後に路頭に迷うことになるのです。
逆に、妻の千草は自分の本質を早く見極めて、その為に徹底した下準備をしていました。
二人の対照的な生き様は老年だけではなく今の若い人達にも一つのメッセージとなるはずです。
単に仕事をこなすだけではダメであり、かといって気持ちだけでも出来ず下準備が必要となります。