出典元:https://https://www.amazon.co.jp/dp/B087L9JTZ6/?tag=cinema-notes-22
この作品の原作はミゲル・デ・セルバンテスの古典小説「ドン・キホーテ」です。
原作を下敷きにしつつも現代社会への痛烈な風刺を調所にちりばめた問題作に仕上がっています。
構想から30年を経て、「未来世紀ブラジル」を世に出した鬼才テリー・ギリアム監督によって映画化されました。
ハビエルはなぜ狂ったのか。いや、本当に狂っているのは誰なのか。
日常に潜む狂気の存在や、そもそも正気と狂気の境界はどこなのかなどについて考察します。
ハビエルはなぜ狂ったのか
スペインの片田舎のうだつの上がらない靴職人であったハビエルはなぜ「ドン・キホーテ」として復活したのでしょうか。
トビーの卒業制作映画に出演したことだけがその理由ではなさそうです。
日常に潜む狂気
ハビエルの心の中にあるコップはつまらない日常性から抜け出したいという鬱々とした思いで溢れかけていました。
あと一滴でコップから正気が溢れ出し、得体の知れないものが出現する状態にあったのです。
トビーの卒業制作映画でハビエルがドン・キホーテを演じるという刺激が決定的な一滴をコップに注ぐことになりました。
人は誰でも不条理で納得のいかない日常生活を送っています。いわばギリギリの線で正気を持ちこたえているのかも知れません。
何か強烈な一滴がコップに注がれればコップは溢れて、誰しも狂気に走ってしまう可能性があるのです。
多くの人はこれに気づかず日常を送っていますが、狂気はその日常の中に潜んでいます。
ハビエルは本当に狂っていたのか
作品ではバルコニーから地面に墜落したハビエルが頭を打ったショックで正気に戻ったかのような表現があります。
でもこれはテリー・ギリアム監督の我々への罠かも知れません。狂っていたハビエルがショックで正気に戻るというのは納得しやすい筋書きです。
しかしテリー・ギリアム監督のこれまでの作品を知っていれば、このような安易なストーりで納得できるわけがありません。
本当はハビエルが敢えて狂気を演じていた可能性があります。
ハビエルは皆に忘れ去られた取るに足りない靴職人という仮面を剥ぎ取り、本来自分がかく在りたいと思う姿を演じたのです。
テリー・ギリアム監督は我々に本当に狂っているのは誰なのかを問いかけているのではないでしょうか。
正気と狂気
そもそも狂気とは何をさすのでしょうか。言い換えれば正気とは何のことをいうのでしょうか。
正気と狂気の境
正気は正常な精神状態のことをいい、狂気はそうでないことをいいます。
でもそれは見る立場・思いや時代背景による環境の違いによって変わってくるはずです。