つまり正気と狂気の境界は曖昧なのです。あの時代多くのドイツ国民から支持されたヒトラーは狂人だったことを思い出しましょう。
正気を任じる集団が実は集団的狂気に陥っており、それを批判し続け狂気と烙印を押された人が実は後世に正気だったことが判明したりします。
正気の正体は
正気とは何かがわかれば狂気の正体もわかります。世間がいう正気とは単にマジョリティであるというだけかも知れません。
人間の本質を考えると何か正気を決定づける普遍的な人間性があるはずです。弱い人を助けたり、卑怯な振る舞いをしないといったものです。
本来はこのような人間性の本質を忘れないことこそを正気というのかも知れません。
そのような普遍的な基準で見ればハビエルのドン・キホーテこそ実は正気であったのではないかということが見えてきます。
騎士道と武士道
ドン・キホーテが貫いたのは騎士道精神でしたが、日本には武士道があります。騎士道と武士道はどう違うのでしょうか。
どちらも戦いを生業とする騎士・武士の道を説いた行動規範という意味では同じで、忠誠・忠義を重んじるということでも共通します。
ただ騎士道には武士道にない女性を守ることを絶対視している部分があることが特徴的です。
原作の「ドン・キホーテ」にも本作品にも調所に女性を守るというシーンが見られます。
西欧のレディーファーストはこの騎士道精神からきているのです。
ロシアの富豪アレクセイとCM監督トビー
作品の後半に登場するロシアの富豪アレクセイの役どころはどのように考えればいいのでしょうか。
単にアンジェリカを奪った悪役という考え方だけでは不十分です。
アレクセイが象徴するもの
確かにアレクセイは金にものをいわせて人間の誇りをもないがしろにする傑物です。
そういう意味ではアレクセイは現代社会の権力者といってもいいかも知れません。
いわば資本主義的権力の象徴として描かれており、その経済力と支配力の前では誰も反抗することが許されない存在なのです。
アレクセイとの絡みでハビエルがやや存在感を失っていく中で、トビーは敢然とその権力に立ち向かいます。
このとき実はドン・キホーテとしての役割はハビエルからトビーに移っており、ラストシーンに向けての布石が打たれているのです。
作品ではアレクセイもハビエルもトビーを振り回す存在として描かれていますが、その象徴するものは異なっているといえます。
アレクセイが資本主義的権威の象徴ならば、ハビエルはそこからはじき出されたはみ出し者の象徴なのです。
アレクセイはトビーの暗黒面
一方でアレクセイはその絶対的な権力で周囲の多くを取り込み、各人に役割を与えてその役割を演じることを強要しています。
これはCM映画監督としてのトビーの振る舞いと見事に重なります。