マリアンヌは夫となったマックスに娘を抱えさせたままその罪を着せたことに責任を感じました。
だからこそ自殺することで自身の愛を証明し、全ての責任を1人で取ることにしたのです。
流石にそんなものを目の前で見せつけられては法律でマックスを裁くことなど出来ません。
生まれてきた娘に罪はありませんし、マックスも半分彼女に騙された形なのですから。
そうした親子の情愛が正義を超えた瞬間として描かれているのでしょう。
マックスの罪を帳消しにする
2つ目にフランクは何とかマックスとアナが生き延びられるようにしたかったのでしょう。
折角マリアンヌと名乗るスパイの粋な計らいを無碍にするわけにはいきません。
だからといってここで自殺だとしてしまっては正義の敗北を意味することになるのです。
表向きの体裁はたとえ作り話であっても威厳として保たれなければならないでしょう。
国家の尊厳は何にも増して守られなければならない、まして戦時中であれば尚更のこと。
だからこそ自殺ではなく他殺という形で報告したと推測されます。
優しい嘘もまた愛である
そして3つ目に優しい嘘もまた愛であるということを示す演出意図です。
フランクもまたマリアンヌと名乗るスパイ同様虚偽の報告をしたことになります。
社会人として見ればフランクのやった行為は失格になるでしょう。
しかし、それは決して悪意のあるものではなく寧ろ優しさと愛に満ちたものでした。
国家といったってあくまで国家を構成するのは人間であることに変わりありません。
この報告はフランクという厳しい人が不意に見せた愛だったのではないでしょうか。
虚偽と真実のバランス
マックスとマリアンヌ、2人の愛は虚偽と真実のバランスによって保たれていました。
それはカメラのアップが捉える2人の表情によっても表現されているのです。
マックスもアナも、そして受け手さえもマリアンヌと名乗るスパイは何度も騙してきます。
しかし、その中でもマックスへ向ける表情・声・眼差しの何と輝いていることでしょう。
どれだけ不貞な行為を働いてもマックスに対する義理と筋はしっかり通しているのです。
男女の愛という根源的ながらも再現の難しいテーマを見事にやりきってみせました。
王道に見せかけた異端児
本作はこうして見ていくと、王道に見せかけた異端の作品であることが窺えます。
まず往年の名作映画のお約束を押さえた上でそれを脚本と演出で大胆に破っていくのです。
マリアンヌが本物ではなかったが故にマックスとの愛が深まる程苦しむことになります。
しかし、その中においても彼との愛だけが本物だったことの証明として娘を遺すのです。
戦時中という個人の尊厳が国家に蹂躙される時代だからこそその愛が重みを持つに至ります。
その上で本作は愛という名の個人の尊厳が国家の正義を上回る大逆転を起こしました。
それは即ち個人が国家を超える時代が来ることを示しているのではないでしょうか。