どの人物にも「善悪」両方の側面があり、もっといえば善悪は状況によって変化した単なる「関係の結果」であり、その概念自体が流動的なものです。
生きるということは椅子とりゲームのようなもので、立ち位置が変われば行動も変わり、行動が変われば人間関係も変化します。
そう考えれば人間性というのは鏡のように実像を持たないものなのかもしれません。
生きるのを手伝う
終盤、本作にとってとても重要な「生きるのを手伝って」という言葉が出てきます。
これはとても傲慢で、同時に献身的で愛情に溢れた言葉です。「きみ(硝子)のために生きる」でも「自分(将也)のために生きて」でもなく「生きるのを手伝って」です。
自分のために生きることができるのは自分だけであり、どんなに親しい人にも代わってもらうことはできません。
その中で誰かができることがあるとすれば「支える」ということだけなのでしょう。
この言葉は、「自分が生きていく覚悟」と「他人ができることの中で最も尊いものを求める気持ち」、「一人では生きていけないこと(これからもさまざまな葛藤に悩まされるであろうこと)」を含んだ鮮烈で優しい言葉として印象づけられています。
二人が象徴するもの
将也と硝子、対照的でありながらも共通する二人が象徴するものとは何でしょうか?
二人の共通点
開始位置こそ真逆でしたが、「言葉が聞こえない(聞こうとしていない)こと」、「自分を無価値だと思っていること」、「死を選ぼうとしたこと」、「自分が悪いという思考であること」など、二人には多くの共通点があります。
ただ、将也が硝子と接することで生きる力をもらっていたのに対し、硝子は「自分の存在が邪魔で将也が前に進めない」と感じていました。
劇中に「好き」を「月」と聞き違えるシーンがありますが、これは同じような弧を描きながらも交わり合えないもどかしさを象徴しているようです。
不完全かつ完全なコミュニケーション
将也と硝子の不器用ながらも真摯なコミュニケーションは、とかく言葉の意味に振り回されがちな社会へのアンチテーゼの象徴と解釈することもできます。
「言葉を選ぶ」と同じくらい「心を向ける」ことが大切なことを教えてくれているようです。
「聲の形」絵と音
本作では時に絵や音が言葉以上の意味を持つことも大きな特徴です。印象に残る場面を挙げてみましょう。
花火
将也が死ぬのを止めた時、硝子が死ぬことを決意した時に、花火が描かれています。
場面としては対照的ですがどちらも「感情と行動のスイッチ」のような扱いになっていて、「無意識にある言葉にできない感情」を表わす演出と解釈することもできます。
水
劇中で登場人物の関係に変化が表れる時、必ずといってよいほど雨・川などの水を使ったシーンが登場します。
このことは「お互いが同じ状況で同じ痛みを分かち合わなければ理解し合うことなどできない」ということを暗喩しているようにも見えます。
振動
時にはノイズ混じりに、時には少しこもった音で、「聲の形」では音がとても繊細に鳴らされています。
特に象徴的なのが「振動」を使ったシーン。将也と硝子が待ち合わせ場所で柵に当たった音でお互いの存在に気づくというシーンが幾度か出てきます。
振動は耳で聴くものではなく骨で、つまり身体で感じるものです。
2人が感情を共有していること、理解しようとしていることを表わす象徴という見方もできます。
まとめ
作品に明確な方向性を持たせメッセージを込めるというより、「現象を掘り下げて描く」ということと真摯に向き合い、それゆえ視聴者自身がそれぞれの答えを導き出す余地を残した本作。
「聲の形」に形がないように、ここに書かれたことがすべてではありません(意見の1つと捉えてもらえれば嬉しい限りです)。
その時の自分の心情によっても感じ方は変わるでしょう。
この作品を通じて「形にならないもの」と向き合ってみてください。