しかし、兄妹にとっておばさんの家を出て兄妹で過ごした時間はかけがえのないものでした。
節子はドロップ缶に入った水を飲んで、これまでになく幸せそうに笑っています。
14歳の清太は、究極の時代において自分が妹に出来る精一杯の幸せを求めていたのです。そして節子にもそれが伝わっていたことでしょう。
清太が銀行に残りのお金を取りに行こうとしたとき「どこへも行かんといて!」と節子がすがるシーンが心に刺さります。
監督が残したメッセージは……
「火垂るの墓」はお涙頂戴の反戦映画ではないといいきる高畑監督が使えたかったメッセージは、強烈なものでした。
抑圧される時代が怖い
劇中の清太は抑圧され洗脳にもにた社会に反抗するかのように生きています。言葉を変えれば、社会に流されず生きていきます。
抑圧されず自由な世界に生きる現代だからこそ、清太の生き方を良しと考えることが出来ます。
監督はここに警笛を鳴らします。
もしまた抑圧される時代がきたら、劇中のおばさんのように清太の生き方を非難する人が増えてしまう。それが恐ろしいと語っています。
兄妹が彷徨い続ける「不幸はぬぐえない」
清太と節子は辛い時代の中で、ほんの一時でも幸せな時間を過ごすことが出来ました。
そして二人が亡くなっても一緒にいる。安らかに……という、いわば終わりよしの映画ではありません。
二人は亡霊として現代を彷徨っており、自分達が過ごした辛い過去を何度も繰り返しているという設定です。
戦争が生み出した不幸は死んでも払拭することはない。これ以上の不幸があるか。という監督の想いが強烈に描かれているのです。
蛍ではなく火垂るというタイトル
劇中には綺麗な蛍のシーンが幾度となく描かれています。しかし蛍が描かれるときは誰かの「死」を意味しています。
美しくそして儚い命と蛍の対比が、死を強く印象付けます。
しかしなぜタイトルは「火垂る」なのか、実はこの火垂るとは神戸の空襲を指しています。
空から降ってくる爆弾の様子は「火垂る」そのものではないでしょうか。
「火垂るの墓」はただの反戦映画ではなかった
高畑監督は自ら「反戦映画ではない」と言い切っています。集団的思想の恐ろしさや、人間の生き方を追求しているのでしょうか。
14歳の兄清太はどのように生きればよかったのか、何度も考えさせられる作品です。