本作における犬鳴村の描写を見て、1番に出てくるのは「被差別部落」ではないでしょうか。
「コノ先、日本国憲法通用セズ」と書かれた看板、そして後半の回想シーンから犬鳴村の背景には被差別部落があります。
特に犬を食料として食らう描写、犬と人との交わりを匂わせる描写、ダム建設で村人を次々に追い払う描写などに顕著です。
こうした描写は現代社会に住む我々には奇異でしかないのですが、「郷に入れば郷に従え」で犬鳴村では日常だったのでしょう。
今や国籍や人種を超えた交流が当たり前の時代で敢えて「被差別部落」に向き合うことが何を意味するのか?
それはきっと日本人同士でも無意識の人種差別が存在していること、偏見・差別を克服出来てないことの示唆ではないでしょうか。
血筋
こうした社会的かつ歴史的な複雑さを伴う問題を孕んだ「犬鳴村」において、有効に機能するのが「血筋」という設定です。
主人公・奏をはじめ父・晃以外森田一家全員が犬鳴村の血筋であることが判明するのですが、本作ではこれが特に有効活用されています。
まず1つには犬鳴村の都市伝説が決して他人事ではないという切迫感を与えるものになるということ。
例えばあなたがもし犬鳴村に住んでいた人の血筋・家系であるという事実が判明したら、どうしますか?
下手すればそのことで思い詰める余りに発狂してしまうかもしれません。
また、血筋であるが故に先祖の代のみならず、自分達までもが都市伝説に噂されている恐ろしい姿に変貌してしまうのではないかという恐怖。
「あなたが事件の当事者(或いはそれに近しい立場の人間)だったら?」と想像力をかき立てる設定として「血筋」が上手く活きています。
多数派と少数派
こうした被差別部落、そして森田家を中心にした「血筋」の問題を突き詰めていくと最終的には「多数派と少数派」の問題に行きつきます。
日本は「和を以て貴しとなす」が根本の国民性にある故、世間一般の常識(多数派)から外れるもの(少数派)は危険因子扱いされるのです。
犬を食料とし、時に外で売りさばく犬鳴村並びにその村人の設定は動物もまた人と同じに愛する現代日本においては相容れないものでしょう。
それが証拠に父・晃をはじめ犬鳴村出身でない人々は誰も奏達の血筋並びに村の人達に対する関心・理解を示しませんでした。
悲しいことに、いつの時代においても「少数派」は少なくとも日本においては理解されにくいものなのです。
ラストシーンをめぐって
後半~終盤にかけて犬鳴村の恐怖が森田家の血筋に集約されていくのですが、この終盤は果たして何を意味するのでしょうか?
ラストシーンを中心に物語の本質、核というべき部分を考察していきましょう。
曖昧になってくる境界線
本作の後半~終盤は畳みかける描写が多くなり、時に時系列や設定を無視した荒唐無稽な東映らしい描写が目立つようになります。
批判も多いですが、見方を変えれば奏が犬鳴村の問題に関わる毎に「境界線」が曖昧になっているともいえるのではないでしょうか。
というのも、「犬鳴村」後半、特に奏が先祖の霊・成宮健司と深く関わってからは奏視点の物語へと変わっていくからです。
そのように見ていくと、「現実」と「架空」、そして「この世」と「あの世」といった前半の設定が曖昧になるのも不思議ではありません。
つまり、後半~終盤において実は「視点の入れ替え」が起きているのです。
序盤は明菜達「外」の話だった犬鳴村の伝説が徐々に「内」の視点へと移行しており、それが後半~終盤で我々が抱く違和感の正体なのでしょう。
それだけスムーズに本作の視点を奏の主観に切り替えることが出来、また曖昧化する境界線という形で示すことが出来たということです。
摩耶から奏への「伝承」
そうした視点、視座の切り替えの集約として象徴的なのが終盤の「イヌビト」といわれる摩耶を通じたやり取りです。
本作象徴する名シーンのですが、初見では単に「イヌビト」と化した摩耶が赤ん坊を返して欲しいと駄々を捏ねているだけに見えかねません。
しかし、これは実は摩耶(と健司)から奏への「伝承」と考えると納得のいくものになっているのではないでしょうか。