奏は祖母・耶栄が摩耶と健司の子として犬鳴村から流されてきた子であること、自身もその血を受け継ぐ子だと疑似体験するのです。
が、ただの疑似体験ではなく、ここで摩耶は奏へ自身の持つ「巫女」として、「イヌビト」としての宿命を継承させたのでしょう。
「早く逃げろ」と批判されるこのシーンですが、このように先祖から孫への「伝承」と捉えると摩耶が逃げ出さなかったのも納得です。
ラストカットが意味するもの
自身の血筋の真相を知り、宿命を受け入れた奏。しかし、ラストカットでは彼女も摩耶や母・綾乃同様「イヌビト」と化してしまいます。
そこまでが微笑ましく和やかなドラマとして進んでいただけに、ラストカットの衝撃は凄まじいものでした。
しかし、このラストカットを挟むことでこの「犬鳴村」がギリギリの所で「いい話」になることを避けられたといえます。
このラストカットが意味するもの、それは「真実を知る」ことと「答えが判明する」ことが別物であるということでしょう。
確かに奏は自身の血筋にまつわる真相を疑似体験を通して知り、祟られた家系だという宿命を受け入れました。
しかし、その対価として奏はずっと自身の中にある「イヌビト」としての血筋と向き合って生きていかなければならないのです。
あのラストカットは奏がこれから向き合うべき運命の過酷さを象徴していたのではないでしょうか。
村人の正体
ここまで奏を中心に考えてきましたが、こう見ると犬鳴村の人々の正体も自ずと見えてくるのでは無いでしょうか。
ここでは果たして犬鳴村の人々がどのような人達であったのかを考えてみましょう。
村人が真に怒ったものは?
犬鳴村の村人達は村に踏み込んだ、或いはそれに近いことをした人々を殺しました。方法は「溺死」だったのです。
何故溺死だったのでしょうか?ただ殺すだけならイヌビトとして噛み殺すとか幾らでも方法はあったでしょう。
ダム建設で村ごと水没死させられたことへの報復ともとれますが、実は身勝手な差別・偏見に対する怒りだったのではないでしょうか。
自分達にとって異分子だからとあることないこと言いふらし、その上で無許可でダムを造って水没させる人間の傲慢さ。
そういう度し難い人間の業の深さに触れたからこそ、犬鳴村の人々は血筋の者を除いて入ってきた人達を水没死させたのでしょう。
村人の正体≒地球の負のエネルギー
人間の業の深さに触れて溺死させられたということは村人の正体は地球の負のエネルギーだったと考えられないでしょうか。
飛躍気味ではありますが、人間も所詮地球の産物であり、それは犬鳴村の人々とて例外ではありません。
成仏しなかった霊の魂はそのまま「あの世」と「この世」の境界線で彷徨い続けるといいます。
そして、自分たちはダム建設という身勝手な理屈の為に自然の力によって理不尽に殺されました。
ということは怨霊として出てくる村人達は地球の負のエネルギーの象徴として人類に復讐をし続けているといえるでしょう。
凄く悲しい話ですが、こういう人達を生み出してしまうのもまた人間の悲しい性なのです。
わらしべ唄の真相
「犬鳴村」で度々流れてくるわらしべ唄。全部で3番までありますが、「ふたしちゃろ」「赤子は見ずにながしちゃろ」は共通しています。
ここから見ていくわらしべ唄の真相…それは現代日本の「闇」そのものではないでしょうか。
「ふたしちゃろ」はそのまま自分達に都合の悪いことには蓋をしてしまう事なかれ主義の批判として歌い込まれています。
そしてもう一つが「赤子は見ずにながしちゃろ」…これは赤ん坊・子供を虐待ないし育児放棄する無責任な親への警鐘と取れます。
そうした日本人が無意識の内に蓋をしてしまっている「闇」、それがこの唄に切なくも悲しい童謡として歌い込まれているのでしょう。
真に伝えたいテーマ
犬鳴村という都市伝説の再構築を通して、本作は様々なメッセージを伝えてくださいました。
集約すると本作が真に伝えたいテーマは「目を背けてはいけない真実がある」こと、そして「宿命を受け入れることの過酷さ」ではないでしょうか。
主人公・森田奏は犬鳴村の伝説を目の当たりにすることで自身の避けられない血筋による運命を知り、それを受け入れました。
しかし、イヌビトとしての血筋・運命を受け入れた奏は死ぬまで「イヌビト」という宿命と向き合って生きていかなければなりません。
そうした宿命の過酷さを示しつつ、しかしそこから逃げず向き合う大切さを本作は訴えようとしていたのでしょう。