純粋に飛ぶことを楽しむポルコの姿を人間とせずに豚にしたのは、醜い欲にまみえない姿を描きたかったからではないでしょうか。
跳ぶことを純粋に楽しんでいる姿=豚という方程式が成り立つなら、エンディングに多数の豚が映し出されるのも納得ですね。
その3.ジーナを不幸にしない為
ジーナは飛行艇乗りと3度結婚し、全員に死なれるという辛い思いを繰り返しています。
もし自分と恋に落ちたら、また泣かせてしまうかも知れないという思いがあったのではないでしょうか。
豚の姿であれば愛されることはないと思ったのでしょう。
自由で危険な飛行艇乗りにとって愛する人と結ばれることは、愛する人を不幸にする可能性が高いことを知っているのです。
しかしその思いとは裏腹にジーナはポルコの事を愛しています。いい男は見た目を隠しても、表面ににじみ出てしまうものなのでしょう。
ポルコが豚である意味は観るものに委ねられている
ポルコがなぜ豚なのか、その答えはジブリサイドから発表されていません。それは宮崎監督自体が観るものの感性に委ねている部分が大きいからです。
監督もその後のポルコに関して、「豚になって飛んでいった方が好き」と第三者的な発言をしています。
明確な答えを出さずに、観るものに委ねているところも「紅の豚」を観る醍醐味なのかもしれません。
人間に戻る必要性はない
映画を観た感想を聞くと「ポルコが人間に戻ったのか気になる」という意見が多く寄せられているようでした。
ジーナと結ばれ、人間の姿に戻ったのか気になります。しかし宮崎監督はそんな疑問を一蹴しています。
人間に戻る必要性はない
宮崎監督は、相棒の鈴木敏夫さんが「なぜ豚なの?」と聞いた際に「すぐに原因、結果を求める」と怒ったそうです。
宮崎監督にとっては豚だろうが人間だろうが、存在していることに意味を求めないという考えなのではないでしょうか。
確かに劇中では豚だからと特別扱いされている様子もなく、豚としてそこに存在する姿が描かれています。
外見にこだわりをもって観ようとすること自体がズレているような気さえしてきます。
もしかしたら、監督の中には「なぜ豚なのか」ということより「なぜ豚で悪いのか」という思いがあるのかもしれません。
豚だから魅力的な主人公
「紅の豚」は主人公が豚だからこそ成り立つ物語です。
もし主人公が人間の姿をしていたら、イケメン飛行士の恋の話で終わっていたかもしれません。
主人公が豚の姿だからこそ、戦争に巻き込まれる理不尽さや悲しみ、人に対する想いが強く印象付けられたのです。