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「菊次郎の夏」は日本映画界の巨匠・北野武監督の作品で、1999年6月5日に公開されました。
第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式参加作品部門にも選ばれたこの作品、非常に心温まる感動映画となっています。
今回は菊次郎が母親を訪ねた真意、正男を主題に設定しなかった理由、風車とパンダが持つ意味を徹底考察していきます!!
菊次郎が母親を訪ねた真意
正男の母親に会いに行くという目的の為、旅を重ねる菊次郎と正男。
物語の終盤、菊次郎が介護施設にいる自分の母親に会いに行くシーンが描かれています。
菊次郎が母親を訪ねた真意とは一体何だったのでしょう?
正男と自分の姿が重なった
正男の母親は再婚しており、立派な家庭を築いていました。
母親に声をかけることも出来なかった正男を見て、菊次郎は不憫でたまらなかったのです。
その時の菊次郎の表情に全てが表れています。
正男よりも悲しそうな表情なのです。
菊次郎が母親に会いに行った真意は小さな頃の自分と正男の姿が重なって見えたからといえます。
正男と自分の距離が縮まっていくほど、菊次郎は正男に自分の影を投影していたのです。
正男に勇気をもらった
小学生の正男にとって、一人で母親に会いに行くという行動と選択は相当勇気のいる事だったでしょう。
お金も無く、小学生が一人で会いに行くには距離も遠すぎます。
途中にどんな危険をはらんでいるかもわかりません。無鉄砲な行動ともいえるでしょう。
そんな正男を見て、菊次郎は“勇気”をもらったのです。
自分も正男のように夏休みに冒険のような体験をしたかったといえます。
なので、自分が母親に会いに行く事で、正男の分も一緒に過ごせなかった母親との時間を取り戻したかったのでしょう。
愛されたかった菊次郎
菊次郎も正男と同じで子供の頃に母親に捨てられた過去を持っています。
母親を遠巻きに見た時、“どうして俺を捨てたんだ!!”そんな文句の一言も言ってやりたかったといえます。
しかし菊次郎は母親に声はかけませんでした。かけられなかった、という方が正しいでしょう。
今更、そんな事を言ってももう母親には通じない、と人を避ける母親を見て直感的に思ったのです。
でも菊次郎は本当は母親の愛情を何よりも欲しているといえます。
菊次郎は大人になりきれてない大人、という表現がぴったりの人間です。
菊次郎が母親を訪ねた真意は、“少しでも自分の方を見て!”という想いからだといえます。