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1971年、奇しくもベトナム戦争の真っ只中で放送された本作は原作、そして映画共にダルトン・トランボの手で誕生しました。
原題は“Johnny Got His Gun”であり、第一次世界大戦時の志願兵募集キャッチフレーズへの当てつけとも取れるものです。
原作は第二次世界大戦中にその過激な内容故に支持者が出たり、逆に脅迫を受けたり、またあるときには絶版すら経験しました。
当のトランボ監督自身もハリウッドを一度追放され一度刑務所入りすらも経験しているほどです。
そのような紆余曲折を経て「反戦映画」として製作された本作は内容の過激さ・衝撃性に様々な論争を呼び起こしています。
戦争で四肢どころか人間として必要な部分をほぼ全て喪失した「肉塊」でしかない一人の青年の生き様が見所の本作。
そんな青年・ジョーが何故死を真っ先に選ばなかったのか?そしてそんな彼に指で字を書いた看護師はどのような思いで居たのか?
本作の核となる部分を中心に考察していきましょう。
反戦映画か?
「ジョニーは戦場へ行った」は「反戦映画」という触れ込みで評価されていますが、本当にそうでしょうか?
というのも、本作は「反戦映画」と評するには余りにも規模の小さい卑近過ぎる物語だからです。
作り手側は確かに「反戦映画」と謳っていますが、出来上がった作品が必ずしも意図した通りになっているとは限りません。
多くの映画批評・解釈・考察で本作のベースにあるのは「反戦映画」という触れ込みでした。
まず最初に本作のタイトルの意味、そして内容からその評価が正しいのかどうかをまず見ていきましょう。
タイトルが「過去形」である意味
「ジョニーは戦場へ行った」でまず注目すべきはタイトルが「過去形」、即ち”Johnny Got His Gun”ということです。
英文法の話にもなってきますが、英語の過去形は「過去の出来事=現在とは切り離されている」が中心にあります。
これは当時の募集兵キャッチフレーズ”Johnny Get His Gun”を過去形にしたものですが、果たして何を意味するのか?
それは「戦争の結果」しか描かれていないということです。ジョーは戦場へ行き、そして悲惨な姿になり果てました。
簡潔にまとめると、極めて大きい戦争の結果として生じた名もなき一兵士の末路、ただそれだけが本作で描かれていることです。
マクロな視点の不在
「ジョニーは戦場へ行った」は極めてミクロな視点で戦争が描かれており、第一次世界大戦の全体像という「マクロ」な視点が欠けています。
20世紀を象徴する二つの世界大戦は世界中の政治家達の思いの山積と軍事力の発展という様々な要因が複雑に絡み合って起こった戦争なのです。
それを一人の兵士に焦点を当てて描いたところで、世界大戦がどれだけ悲惨な戦争であったかということの証明になるのでしょうか?
反戦映画というからにはもっと大きな視点で、当時の経済状況、社会情勢、軍事力の比較等々の入念な時代考証が必要となります。
勿論ミクロな視点からマクロな視点への拡張、そしてそこから見えてくる戦争の本質はあるでしょうが、本作はそのような構成になっていません。
あくまでもただただ一人の青年が戦争によって無残にもただの「意識ある肉塊」でしかなくなった彼の悲惨さを痛烈に描くのみです。
論題や言説そのものへのクリティーク
もっといってしまえば、ジョーの辿った「意識ある肉塊」としての末路自体は戦争でなくとも現実に起こすことは可能です。
四肢切断も顔のパーツを剥ぎ取ることは物理的に可能であり、この悲惨な一兵士の末路のみをもって「反戦映画」とはいえません。
本作を豊かに評価していく際まずは「ジョニーは戦場へ行った」という題への言語クリティークへの理解が必要となります。
「行った」という過去形はあくまで「結果」しか示されず戦争のメカニズムや本質を読み解くことを主眼にしていないということです。
それにもかかわらず、多くの言説が何故か「反戦映画」というやや高尚な響きを伴う言葉でひとまとめにされてしまっています。
まずこの部分をしっかり指摘した上で、では本作がどのような映画なのか、それをこれから見ていきましょう。
「ジョニーは戦場へ行った」の真のテーマ
では本作のテーマが仮に「反戦映画」でないとするのなら、本作の真のテーマは何なのか?