出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B01EVWWTQU/?tag=cinema-notes-22
1988年に東京で実際に起きた「巣鴨子ども置き去り事件」をヒントに、是枝裕和監督が製作、脚本、編集まで手掛けた「誰も知らない」。
テレビ・ドキュメンタリーディレクター出身の是枝監督らしい、ノンフィクションタッチで描かれています。
主演の柳楽優弥が2004年度の第57回カンヌ国際映画祭にて
史上最年少および日本人として初めての最優秀主演男優賞を獲得したことで大きな話題(後略)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/誰も知らない
を呼びました。是枝監督長編4作目の作品で、彼の知名度を一気に高めた作品でもあります。
主役の子供たちの自然な演技が高い評価を得ている本作がどのような意図をもって作られていったのでしょうか。
単に悲惨なネグレクトを描いただけではなさそうです。
ここでは、実際の事件の持つ陰惨さとは趣を変え、むしろファンタジックとさえいえる感性で仕上げた監督の狙いを考察。
加えて、ゆきは何故椅子に登らなくてはならなかったのか、これに続くラストを読み解いていきましょう。
子供目線でネグレクトを描いた画期性
是枝監督は実際の事件の直後にシナリオの原型を書き留めていたそうで、それが映画化されるまで15年を要しました。
子供たちの「必死に見えない懸命さ」に心が痛む
しかし、15年後には社会がさらに大きく変化し「ネグレクト」は見過ごすことが出来ない大人と子供の社会的断絶の象徴となりました。
是枝監督は本作のパンフレットで、実際の事件の少年が自分が果たすべき責任を全うすることが出来なかったことを責めていたと説明。
監督はこの少年の愛おしさが本作の製作に繋がったという趣旨の話をしています。以下のサイトにこの詳細が掲載されています。
子供が主役という意味
作品中、長男・明(柳楽優弥)は家長としての自覚を持ち、全員父親は違うものの、京子、茂、ゆきをまとめ必死に生きようと責任を負います。
賢い明は、日常生活にさまざまは工夫やアイデアを持ち込み、「生きること」「きょうだいたちの命を守る」使命を果たそうとするのです。
(アパートの室内の小道具や演技のディテールは日常的生活感が溢れ出るようで彼らの生活描写として非常に優れたものです)
しかし、所詮11歳程度の子供でしかなく、社会的な認知もされていない状況では明の出来ることは限界があります。
こうして明を中心にした子供目線(中盤から中学生紗希も加わる)で大人の身勝手さを告発すると同時に子供のバイタリティも表現しました。
(そのバイタリティも反語的意味があるのですが、その事は後述します)
決して笑えない生への渇望
時としてクスッと笑ってしまうような子供らの無邪気で純粋な行動。でも底辺には常に貧しさへの彼らなりの抵抗と生と愛への渇望がありました。
笑えない必死さに観客の胸はさらに痛むのです。
これまでの映画では見たことのない事件に対する画期的な視点だったといえるでしょう。
生きているのはおとなだけですか
引用:誰も知らない/配給:シネカノン
本作のタグラインであるこの一節は、明たち子供から、無責任な大人全員に静かに叩き付けられたメッセージといえるます。
必死さが伝わらない大人たち
是枝監督は本作で子供を主役に据えました。彼らの「必死」さを受け止めるべき肉親を含めた大人たちに、子供らの必死さが伝わりません。
いや、耳を傾けようとしていないのです。
母
是枝監督は母親のオーディションにおいて、YOUの存在を一発で認めたといいます。
子供たちの友人のようなキャラクターは親しみやすい一方で、だからこその裏側にある冷たさを投影しているといえるのです。
子供たちにとって全員と血が繋がっているこの世で一番愛すべき母。
しかしその裏にある無責任の極み。YOUの存在が「けっこういいヤツかも」という観客にスキを作ります。
大阪に行く母親を駅に送る明。母に堪えていた気持ちを吐き出します。
「大体お母さん 勝手なんだよ」