死にゆく女性を撮影する禎司。彼は彼女たちに何を求めていたのでしょうか。
快楽を求めて
自分に興味を持った女性を禎司は殺害してきたのかもしれません。そういった意味でいうと、ルーシーもリリーも獲物だったといえます。
しかしルーシーを家に招き入れた禎司は彼女を殺しませんでした。一方、付き合いの浅いリリーを先に殺してしまいます。
ここで分かるのは、禎司はルーシーを殺したくなかったということです。
彼女達はどちらも禎司の部屋に入りましたし、殺される機会もありました。
生かされたルーシーと殺されたリリー。その差はなにかといえば、「愛」なのではないでしょうか。
つまり禎司はリリーのことをルーシーほど愛していなかったのです。ただルーシーを殺せない代わりにリリーが標的になったということ。
禎司は、目の前に大好物を置かれてよだれを垂らしている獣同然です。
食べたいのに食べられない欲求を満たすがためにリリーは犠牲になったと推測できます。
理解されない苦しみ
恋人ができても、愛するが故に殺してしまう禎司。
彼にとって恋人の死にゆく姿は、カメラのシャッターに収めたくなるほど甘美なものだったのでしょう。
しかし死んでしまえば、もう二度とその恋人に会うことは叶いません。彼にとって愛することは殺すこと。
これ以上ない愛を見つけた時、それは終わってしまう。その悲しみは彼の心に暗い影を落としたに違いありません。
そしてこの秘密の行為は、愛する人に暴露することが一番許されません。仮に暴露したなら、恋人は彼のもとをすぐさま立ち去るでしょう。
禎司は愛する苦しみを人知れず抱えていたのです。
ですが犠牲者からすれば彼の苦しみなどどうでもいい話。リリーを殺していい理由などありません。
ルーシーはリリーを殺害していた?
やってもいない罪をわざわざ自白する人はなかなかいません。ですが他人からしたら馬鹿げた行為をルーシーは実行しました。
彼女にとってリリー殺害は虚構ではなく現実であったに違いありません。
「リリーを殺したのは私だ」と追い詰められたルーシー。そんな彼女の心の中はどの様な感情が渦巻いていたのでしょうか。
ルーシーは自白したが
今まで自分と関係のある人が死んでいくのを見てきたルーシーが、リリーのことも自分のせいだと思い込むのは仕方のないことです。
しかしこの自白は他人からすれば妄想でしかありません。
直接殺したわけでもないのに、あたかも関係性があるかの様に考えるのは、ジンクスに似ています。
映画のタイトルにもなっている「アースクエイクバード」ですが、直訳すると「地震の鳥」。
これは「地震が起きる時に鳥が鳴く」というジンクスを表しています。
日本では「猫が顔を洗うと雨が降る」などのジンクスが有名ですが、猫が雨をもたらすわけではありません。