狂気を孕みながらも信念や指針をもって主体的に動いていた我妻や清弘と対比する形でこの女性秘書は描かれているのです。
民衆とは冷徹な傍観者
信念を持たない女秘書がラストで菊池を一瞥したのは菊池がどのように落ちていくのかを見届けたいからではないでしょうか。
岩城の代理を受け継いだ時点で菊池にはどちらにしろ明るい未来など待ち構えていないことは誰にとっても明白です。
しかし、民衆は時としてそのように目立った誰かが落ちぶれていく様を奥底では望んでいます。
その証拠にあれだけ狂気にまみれた戦いを目の当たりにしながらも社会は何一つ変わらず、我妻や清弘の残したものは何も受け継がれません。
そうした「冷徹な傍観者」の象徴として、この映画を俯瞰して無関心さを装ってあざ笑う民衆の怖さがあのラストカットの意味なのです。
菊池が選んだ結末の意味
菊池は最終的に岩城の代理となり、多額の金を新開から受け取りました。
全くの説明不足と批判されるこのシーン、果たして何故このようになったのでしょうか?
理想と現実のギャップ
「その男、凶暴につき」で注意しないといけないのは物語をどうしても我妻諒介視点のみで見がちであるという点です。
本作を菊池という新人刑事の物語として見ると、彼は刑事の「理想」と「現実」のギャップに苦しんだのではないしょうか。
憧れて刑事になったはいいものの、上司はとんでもない凶暴刑事で、関われば関わる程痛い目に遭うのですから。
しかも我妻の強固な信念や狂気に対抗出来る程の強さはなく、また経験値や身体能力も他のベテラン刑事には遠く及びません。
そんな死と隣り合わせの仕事の現実の怖さに菊池は段々ついていけなくなっているのが分かります。
終盤の我妻が清弘を半殺しの目に遭わせる所では我妻のやり口の酷さに辟易してしまっているのが特に顕著です。
こうして見ていくと、菊池の中でどんどん警察という仕事に対する熱意が薄れていってることが分かります。
「狡い大人」への変化
こうして考えていくと菊池が最終的に彼が岩城の代理となった理由も簡単に説明できます。新開から金を受け取った際の台詞がすべてです。
僕は馬鹿じゃないですから
引用:その男、凶暴につき/配給会社:松竹富士
菊池はここで「狡い大人」になりました。警察の現実の過酷さを知った以上我妻や清弘のような生き方をすることなんて到底できません。
かといってエリートとして生きていく程突き抜けて優秀でもないし、一般企業への再就職といった方向性も考えられなかったのでしょう。
女秘書の項目でも触れたように菊池も本質は信念を持たない若者に過ぎません。そんな彼がこれから先生きるにはどうすればいいのか?
そこで考えたのが岩城の代理として麻薬を横流しして金を得るという闇に手を染める道だったのでしょう。
表沙汰になりさえしなければ、闇市では楽にお金を得ることが出来るという考えが菊池の表情、台詞から滲み出ています。
しかし、そのような甘い考えで生きていけると考えている時点で菊池自身もまた「馬鹿」であることに変わりはないのですが…。
酒井を殺したのは?
もう一つ明らかにしておくべきは酒井を殺した犯人ですが、これはもう間違いなく清弘です。
殺人現場が明示されていないだけで、見せ方としてはそう分かるように工夫されています。
あのシーンは我妻が歩道橋で清弘とすれ違い、暫く歩いて漸く刑事の勘が働いて踵を返すも時既に遅し、という形です。
受け手の視点と登場人物の視点の違いを見事に利用した一つの笑いになっています。
受け手は既に清弘がどういう人物か知っているのですれ違う所で清弘だと分かりますが、我妻はあの時初めて清弘の顔を見たのです。
当然一発で清弘だと判別するのは難しく、受け手にそのことを突っ込ませることを狙ったシーンではないでしょうか。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「北野武監督の処女作」として語られてきた「その男、凶暴につき」ですが、実はまだまだ発見の多い作品です。
つい我妻諒介の視点だけで見てしまいがちな本作ですが、視点を変えて細部まで見ていくことで新鮮な発見を許してくれます。
それ位「画」としての豊穣さに優れ、また必要以上に多くを語らぬ沈黙の色気がより受け手の想像力をかき立てるのでしょう。
そうした数々の魅力に満ち溢れた本作は見方を変えるとき、また違った顔を見せる作品に化けるはずです。