出典元:https://www.amazon.co.jp/dp//B082VV6VFJ/?tag=cinema-notes-22
2018年日本公開の映画「ブリグズビー・ベア」。
それまでバラエティ番組のディレクターなどを務めていたデイブ・マッカリー監督の、長編映画デビュー作です。
主演のカイル・ムーニーは監督と古くからの友人で、この映画の脚本も担当。彼らの交友関係も絡めてみると、また新たな発見があります。
ここでは、ブリグズビー・ベアを中心に映画を解説していきます。
ブリグズビー・ベアの意味するもの
タイトルにもなっているブリグズビー・ベア。まずはこの存在が意味するものを考察します。
「好き」ではいけない? 観客心理に訴える設定
冒頭からジェームズが夢中になっている教育番組は、明らかにちゃちな作りです。
シェルター外に見える動植物も作り物で、成人の彼が疑問を抱かないことに違和感すらあります。
中にはこう思った人もいるのではないでしょうか。「いい年して子供みたい」と。
「オタク的」なものへの世間一般的な感覚の喚起。おそらく、それこそが脚本の狙いなのです。
自身が幼いころに好きだったものを否定されたり、諦めたり。そうした経験をした人も、同様の感想を抱きやすいのではないでしょうか。
一心に好きなものを語り続けるジェームズの姿には、「好きなものを好きなままでいていいのか?」という思いを抱いてしまうはず。
この映画はそんな問いかけから始まるのです。
ジェームズ=幼い自分を見守る物語
この感覚が、ある種の生々しささえ感じられるのは、作り手自身の体験も多分に盛り込まれているからでしょう。
ムーニーは1980年代の子供番組に魅了されており、彼とマッカリーはキャラクター「Prayer Bear」をインスピレーションとした[9]。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/ブリグズビー・ベア
しかし今の彼らはもちろん、ビジネスとしてこの映画を作っています。ではそんなスタートを切った映画が向かう先はなんなのか。
冒頭の時点で、観客は、ジェームズの物語がどうなっていくのか見届けなければいけない面持ちになっていることでしょう。
それはもしかしたら、子供の頃の自分を振り返る気持ちにも似ているかもしれません。
なぜ「誘拐」が必要だったのか
この物語では、誘拐の是非は語られません。
事件自体に大きな焦点が当てられていないのですが、ではなぜ誘拐という設定が取られたのでしょうか。
世界の隔離からのスタート
誘拐とは、他者によって別世界に連れ去られるということです。
その状態になることに本人の意志は全く関係せず、自主的ではないことが重要です。
もし、いじめや挫折経験などによる引きこもりだったとしたら、ジェームズの純粋さは保てなかったでしょう。
子供のまま疑いなく生きていたことが、劇中で映画を創ることへの熱意に繋がります。