このストーリーの出発には、ジェームズが世界から切り離されていることが重要だったと推測できるのです。
ジェームズが誘拐された理由に興味がなかったわけ
物語の終盤、育ての父テッドを訪ねた際、ジェームズが誘拐の理由に興味を示さなかったこともそれで理解できます。
彼にとっては、映画の完成こそが最大の焦点であり、誘拐が良いことか悪いことかは問題ではないのです。
ただし、これはある意味でまだ彼が狭い世界でしか生きていないことも意味していました。
ジェームズが真に向かい合うべきものは、別に存在しています。
新しいブリグズビー・ベアの意味
ジェームズが向かい合ったもの。それは創作者としての苦しみでした。
新しい世界とジェームズの誕生/創出の苦しみ
映画を撮っているとき、彼はまだ「ただ純粋に楽しむ存在」でした。
パーティを楽しみ、スマホに驚き、世界を知りはしゃいでいます。
そして無理やり入院させられた際には病院の窓を割って逃走するなど、やはり善悪の基準がズレたまま。
外の世界に出て順応しただけでは、彼はまだ新しい存在になったとはいえないのです。
しかしそんな彼が、緊張で映画の上映に立ち会うことすらできず、親友にのみ本音を吐露します。
不評だったら?
引用:ブリグズビー・ベア/配給会社:カルチャヴィル
彼は、ここで初めて自分以外の視点を獲得したのです。
サン・スナッチャー
映画では、ブリグズビー・ベアは新しい宇宙を創造する為に仲間に別れを告げ飛び立ちました。
ここで興味深い存在は、対する相手であるサン・スナッチャーです。
太陽泥棒と訳されていますが、サンを「太陽」と「息子」のダブルミーニングと考えることもできるでしょう。
息子泥棒。そう、昔の父のことを指しています。
サン・スナッチャーへ突進し「口の中へ入った」ことは、父との一体化も意味しているとも考えられないでしょうか。
創作者になる、つまりジェームズもまた父(作り、育てる側)になったと読みとることができるのです。
ジェームズだけに見えたブリグズビー・ベア
上映終了後、ようやく劇場に入ることができたジェームズ。
温かく迎えられる彼が見たのは、舞台の脇に立つブリグズビー・ベアです。二人は無言のまま頷き合って、そしてベアは消えていきました。
ジェームズは映画を完成させることによって、古い自分に別れを告げたのです。
ジェームズの成長と誕生の物語
ジェームズが解放された後もブリグズビー・ベアに夢中になっていた真意は、それが彼の価値観であり、世界と関わる方法だったから。
ですから外の世界に出たあとも、他者とのコミュニケーションに欠かせないものだったのです。