彼が一途に純愛を貫いたから「グレート」なのではなく、困難な状況の中でも虚構の光を見つけて貫いたことにあるのではないでしょうか。
つまり、のし上がる理由を見つけるのが上手な人で、相手がどんな人でも自分の信念や恋する気持ちを失わずにいられう強さが素晴らしいのです。
恋と愛との違い
ティジーは、ギャツビーが本当は自分の想像していたような身元でないとわかった瞬間に冷めていきます。
野蛮な態度も受け入れがたい様子。
期せず、トムの愛人を轢き殺してしまっても、自責の念に苦しむのではなく、ショックを受けている自分自身を見るような人間です。
つまりティジーは自分以外は愛せないような人なのです。
ギャツビーも彼女を庇い、彼女になんでも与えようとしましたが、子供をなだめすかしているような態度にしか見えません。
そこに大人の情愛や、二人で歩んでいく大人の成熟した関係性は一切みられませんでした。
愛の行為の中には、相手のためを思い行動することが含まれますが、焦がれるばかりの二人の恋はいつか終わりを迎えるのが自然のことです。
成り上がらない生き方
ニックは、ギャツビーが死んだ後、証券の世界から身を引きます。彼は饗宴も悲恋も成り上がることも、全てに興醒めしたようです。
彼は、不足からくる欲望や退廃的な生活の末路を見てしまったので、もっと人間らしい生き方を希求するようになります。
遠くに見える希望や、過去の素晴らしい思い出に浸ることではなく、今を生きることを始めます。
恋人の葬式にもこない非情な金持ちにも、世間を出し抜いて大金を稼ぐ成り上がりにも、ニックは希望を持てません。
彼が求めているのは、その対局にある文化や思想なのでしょう。
そしてそれは、そのままアメリカ社会が望んでいる本当の姿に他なりません。
その望みは現代にも叶えられているとは言い難いでしょう。
ハゲタカファンドのような、ならず者が富を求めてゼロサムゲームを繰り返して、人々の生活もマネーゲームに一喜一憂しています。
だからこそ、アメリカ人にギャツビーは読まれ続け、映画で再生され続けるのではないでしょうか。
それは一種の警告であり、自戒の意味が込められているように思えます。