パンはキリストの体、ワインはキリストの血を表していて、弟子達がそれを飲食するのです。
映画と重ね合わせると、シーランがワインとパンを口にしていることから、ラッセンがキリストの立場であると解釈できます。
つまりただの食事のシーンではなく、シーランがラッセンに完全に従うことを私達に伝えているのです。
シーランは今まで一番慕っていたホッファからラッセンへと手を結ぶ相手を変えたことがうかがえます。
なぜ神に救いを求めたのか
マフィアの大御所ホッファを殺したことをシーランはかたくなに黙っていました。
もし事実を話したら、裏社会の関係者や家族までも影響が及ぶからです。悩みを誰にも打ち明けられないのは、予想以上に苦しいのでしょう。
彼が最終的にすがったのは神様だったのです。何人も殺害しておきながら神様に救いを求めるなんて、なんて図々しいのかと思ってしまいます。
しかしシーランの罪は神様にしか告白できないほど重いものでした。心の中で懺悔し、後悔した彼は本当に救われたのでしょうか。
そのヒントはやはりラストシーンに隠されているようです。神父は告白を聞くだけではなく、神の名においてその人に許しを与える役割もあります。
これを念頭に置いてラストをふり返ると、神父が悲しげなシーランを残して部屋を去ったことが引っかかるはずです。
やはりシーランは救われなかったのだと受け取れます。残念ながら彼の罪悪感と後悔はそうやすやすと救済できるものではなかったということです。
ラストが示す真相
神父への懺悔後にドアを少し開けておくように頼んだラストシーンは、見る人によって色々な解釈が生まれます。
なぜ監督はこのドアのシーンを最後に撮ったのでしょうか。
シーランの心の扉
ヒットマンをしていた頃のシーランは、思考を止めてマフィアからの指令に従ってきました。
「自分は自分、他人は他人」といわんばかりに外部をシャットアウトしていたように見えます。
このシーランの特性はマフィアにとっては好都合だったのでしょうが、現実社会では孤立に追い込まれる要因になるでしょう。
実際、晩年のシーランのもとに家族が面会に来ることはありませんでした。シーランはきっと心のドアをずっと閉めきっていたのだと思います。
しかし最後の最後に彼の暗く重い心のドアは告解によって少し開かれることになったのでしょう。
それがラストシーンで表現されているのかもしれません。
「ゴッドファーザー」のオマージュ
フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」にもドアのシーンが使われています。
「ゴッドファーザー」のドアは反対に閉ざされていて、マフィア伝説の始まりを意味していました。
これを参考に「アイリッシュマン」のドアの意味を紐解くと、マフィア伝説の終わりだと解釈できます。
シーランの周りのマフィア達は死に、大物マフィアのホッファもいなくなったという事実。
それはマフィアが勢力を握る時代の幕が下がったと見ることができるのです。