普通だったらそこで申し訳ないと謝りそうなものですが、こはるはあえて謝りませんでした。
なぜなら自分が悪いと認めてしまったら、子供たちが受けてきた誹謗中傷を肯定することになるからです。
こはるが「自分は正しい」と主張することで、誹謗中傷を悪と言い切ることが可能になると考えられます。
ですから彼女は保身のために「正しい」という姿勢を崩さない訳でもなければ、後悔から虚勢を張っている訳でもありません。
一見誤解を生む行為ですが、そこには子供たちを必死で守ろうとする母親の愛があったことが分かります。
自分よがりな堂下
こはるとは対照的に、堂下は息子からの一言で自暴自棄になってしまいました。堂下も息子のためを思って一生懸命働き、愛情を注いでいたことは確かです。
しかし自分が犠牲になってもいいから子供を守るという気迫を堂下から感じることはできません。それでは本気でぶつかり合える親子になれないでしょう。
子供は親の愛を確かめたい
親を怒らせて出方を窺うのは子供がよく使う手段です。そして子供のことを本気で想う親ならば、真正面から叱るのではないでしょうか。
では堂下の場合はというと、息子と向き合いませんでした。きっと息子は父親の本気を見たかったはずです。
ここでも堂下とこはるの差は明白になったと思われます。
こはるを道連れにした理由
堂下がこはるを道連れにしたのは、お互い子供から必要とされていない親だからという理由からでした。
子供に想いが届かない親なんていない方がマシだと思い込んでしまったようです。
しかしこはるの想いはちゃんと兄妹に届いていますから、稲村家と堂下家は根本的に違うことを堂下は理解していないように見えます。
この思い込みは劇中の話ではありますが、彼のように子供に反抗されたら絶望してしまう親は多いのではないでしょうか。
そういう意味では、現代社会を風刺している描写として捉えることができるかもしれません。
家族の絆を再確認
一旦はバラバラになった家族が、心の内をぶつけ合って本当の家族になる「ひとよ」。
殺人と残された家族という特殊な設定ではありますが、私達にも当てはめられる普遍的なテーマではないでしょうか。
稲村家と堂下家の親子関係が全く異なっていた通り、一筋縄ではいかない問題でもあります。
この作品をきっかけに家族の絆を再確認するのもいいかもしれません。