そんなベスに対して、観客は彼女自身に感染の責任があるのではと疑心を抱くのではないでしょうか。
そして明かされた、アルダーソン社が木を伐採したことに始まり、そこで勤務するベスがウイルスに感染したという事実。
一見そこには因果関係が存在するように受け取れます。
しかし、それはミスリードです。ベスが感染したのは、彼女の会社が木を伐採したのが理由ではありません。
彼女の感染の直接的な原因は、カジノの料理人が豚をさばいた手をきちんと消毒せずに彼女と握手をしたことにあります。
ベスがウイルスに感染し、自身が媒体となってそれを運んでしまったのは彼女のせいではないのです。
ウイルスの発生、そして感染は、多くの偶然と危機感の低さから起こります。
決してひとりの責任を追及できるものではありません。
あの料理人も、彼ひとりが特別に衛生管理を軽んじていたのではなかったはずです。
ベスは、彼女の人生をいつも通り生きていただけで、たまたま最初のひとりとなってしまいました。
少ない情報や先入観から因果関係を割り出てしまうのは、ウイルス感染のような社会混乱が起きている時には危険な行為です。
そして私たちの誰もが、ベスの立場に成りうる可能性を持っていることも忘れてはいけないでしょう。
妻を失くした夫、ミッチ
ベスが発症し死んだことで、映画の中でスポットが当たるようになるのがマット・デイモン演じる夫、ミッチです。
彼を通して観客は、市民の日常が崩壊していく様を目撃することになります。
ミッチを通して見る社会の混乱
医師やフリーライターなど、様々な立場のキャラクターが登場する『コンテイジョン』。
中でもミッチは、市民の中の主人公的な立ち位置を担っています。
彼の視点を通して描かれるのは、感染が広まっていくことで変化する普通の人々の暮らし。
そこには、最前線で救命やウイルスの研究に尽力する医師たちとは別の戦いがあります。
家族と日常を突然奪われながらも、混乱の中で懸命に残された娘を守ろうとするミッチ。
彼がメインキャラクターの中に存在することで、観客はより一層深く映画に感情移入することができます。
ミッチが流した涙
家族をウイルスによって失っただけでなく、自分がベスに不倫されていた事実も知り大きなショックを受けたミッチ。
しかし、最後に彼が流した涙は、ほかでもない彼女のためのものでした。
ミッチにとってのベスは、確かに愛すべき存在だったのです。
そしてそれは、この映画で描かれるすべてのウイルスの犠牲者も同じこと。
誰もが、誰かにとっての大切でかけがえのない相手だったということを、ミッチの涙は表しています。
人々に伝染していったもの
映画ではウイルスそのものの危険だけでなく、それにより人々の心がじわじわと蝕まれていく様も丹念に描かれています。
暴徒化した人々によって荒廃した町。そこではもはや、平常時の倫理は通用しません。
このような事態が起きたのは、単にウイルスの伝染力が高かったためではありませんでした。
ウイルスよりもはやく、人々に伝染していったもの。それは恐怖と猜疑心です。
『コンテイジョン』の舞台となっている2011年は、すでに医療も情報技術も高度に発展していました。
それなのになぜ、あれほどの混乱に陥ることとなったのでしょうか。
パニックはなぜ起こったか
『コンテイジョン』の世界が大きなパニックに見舞われた要因を探っていきます。
冷静さを失わせるもの
ウイルスの撲滅にあたる医療現場や政府機関。しかし、彼らの実情は一枚板とは言い難いものでした。
次々に起きるトラブルの裏には、医師や公人といえど、自分の大切な人を優先的に守りたいという人間の心理があります。