愛する家族や友人が危険に晒されたとき、人の心は激しく揺らいでしまうものです。
実は観客もまた、作中のある出来事を通して彼らと似た心理を味わうことになります。それは、ミアーズ医師の死です。
ウイルス解明から人々を救うため尽力していた彼女は、映画中盤まで物語を引っ張るキーパーソンでした。
映画におけるメインキャラクターの死は、観客に少なからず動揺を与えます。
自分にとって大きな存在を喪失する、あるいはその危機に瀕したとき、果たしてどれだけの人が平静でいられるでしょうか。
フェイクニュースの存在
ジュード・ロウ扮するフリーライター、アランの行動もまたトリッキーです。
彼が主張するレンギョウの効果。結果的にこれは出鱈目だったのですが、その真偽はクライマックスまで明かされません。
そのため作中の多くの市民と同じく、観客もアランの行動に振り回されてしまいます。
また、作中ウイルスに関する数々の専門知識が登場しますが、ここにもメタ的な意図が存在するのではないでしょうか。
目まぐるしく与えられる情報に、観客は程度の差はあれ困惑するはずです。
それはまるで、感染が広まった世界で、日々飛び込むTVや新聞の報道に翻弄される市民のようではないでしょうか。
高度な情報化社会だからこそ、ウイルスに関してのニュースやうわさ話も急速に広まります。
その中には嘘も交じっているのです。しかし、膨大な情報の中で真実のみを選び取ることは容易ではありません。
そうして正確ではない情報=フェイクニュースが流布したことも、間違いなく秩序崩壊の一端を担っています。
分からないからこその恐怖
これほどまでに人々の不安を掻き立てたのはやはり、作中のウイルスMEV-1の正体が不明瞭であったためでしょう。
ワクチンも確立した治療法もないウイルスのパンデミックは、いつ収束するのか誰にも分かりません。
暗く、先の見えない状況は人々肉体的にも精神的にも疲弊させます。
そのため彼らは、そして私たちも、心が弱まりやすくなり、何を信じてよいかわからなくなってしまうのです。
何を怖れるべきで、何を怖れないべきか
未知の脅威に出遭ったとき、わたしたちは誰もが最初は無知で無力です。
だからこそ余計に恐怖心は大きくなり、時にそれは見当違いな方向へ…本来手を取り合うべき隣人へ向かってしまいます。
そのとき、社会はもともとの脅威よりもさらに大きな災厄に見舞われることになってしまうのです。
しかし、打開する道はあります。
まず、自分が遭遇したものの正体を冷静に見極めること。
そして、持てる知識や力を分かち合い、解決のために互いに協力し合うこと。
それができてはじめて、私たちは正しい対処の方法を探っていくことができるのです。
『コンテイジョン』には、人間の良心への希望も描写されています。
例えば、病床で苦しんでいるにも関わらず、隣の患者のために上着を差し出したミアーズ。
あるいは、自らをワクチンの検体としたヘクストールや、ワクチンを掃除夫の息子に譲ったチーヴァ―。
恐怖に目を眩ますことなく、互いの良心を信じれば、未来が開ける可能性は大きくなります。
何を怖れるべきで、何を怖れないべきか。
不安な日々の中で私たちが持つべき心の在り方を、この映画は示唆しているのではないでしょうか。