ピアニストにはもともとウィントン・ケリーが呼ばれていたのですが、バップ色の強いケリーは1曲のみの参加。
このあたり、マイルスがいかにエヴァンスのピアニズムを信頼していたかが分かるというエピソードでしょう。
結局のこのレコードは「モード奏法」を広めたアルバムとして大ヒット、
全世界でのセールスは1000万枚を突破、現在までジャズ・アルバムとしては異例のロング・セラー(後略)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/カインド・オブ・ブルー
を続けているのです。
時代が引き合わせたマイル、エヴァンス、コルトレーン。ジャズの革新は天の配剤により起きるべくして起きたと推察できるでしょう。
いっぽう、エヴァンスはマイルスのバンドを経て、自分のやりたい音楽はピアノトリオにこそあると覚醒したと思われます。
それは楽器同士の会話、インタープレイの思想をマイルスから学び取ったことが大きく影響したようです。
「ファースト・トリオ」の結成
スコット・ラファロとの出会い
先にエヴァンスの音楽人生には大きな出会いが二つあったと書きました。二人目が彼を決定的に変えてしまうベーシストでした。
スコット・ラファロ。エヴァンスより7歳若い新進気鋭のベース奏者で、しかも「モード奏法」を深く理解していました。
まだ23歳。早熟といっていいでしょう。
彼にドラムスのポール・モチアンを加えたトリオ(いわゆるファースト・トリオ)は、ジャズ史に残る名トリオとして記憶されています。
ピアノ・トリオによるインタープレイの完成
特に三つの楽器がまるで対話を重ねるように応呼するスタイルは、「インタープレイ」と呼ばれ、楽器同士が会話をしているよう。
どの楽器がリーダーで、という壁は取り払われたのです。
この映画のインタビューに登場するジム・ホールやトニー・ベネットもその新鮮なスタイルに驚愕を隠しません。
楽器同士の対話を究極の形で突き詰めればピアノ・トリオという形式が最高。
決して一人では完結し得ない完成された音楽の世界をそこに見いだせる、そうエヴァンスは考えてこのトリオを組んだに相違ありません。
それはカルテットやクインテットでは無理なのです。その事をマイルスとの”Kind of Blue”で感じ取ったことなのではないでしょうか。
このトリオでエヴァンスはついに自分のやりたいことを見つけ、気分は上々、演奏へのエネルギーも充実していたことでしょう。
歴史的名盤「リバーサイド四部作」の誕生
輝いていたエヴァンス
スコット・ラファロ、ポール・モチアン、そしてビル・エヴァンス。
このトリオで収録した『ポートレイト・イン・ジャズ』『エクスプロレイションズ』『ワルツ・フォー・デビイ』
および同日収録の『サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード』の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれ(後略)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/ビル・エヴァンス
モダンジャズ史上に燦然と輝く名盤となったのです。
思えば、この時期がエヴァンスの音楽人生のハイライトだったといえるでしょう。
彼らが築き上げた革新性は、その後の様々な楽器のジャズプレイヤーに大きな影響を与えたといって良いでしょう。
スコット・ラファロの死
神様はエヴァンスの美しい音色と引き換えに、他の幸福を奪っていったようです。
若き盟友スコット・ラファロは、ヴィレッジヴァンガードでのライブ録音のわずか11日後、交通事故で帰らぬ人となってしまったのです。
わずか25歳。あまりにも若すぎる別れでした。
映画の中に登場する親族やミュージシャンも口を揃えて言うように、エヴァンスはまるで魂が抜けたようになってしまったといいます。
エヴァンスはラファロの死後ほぼ半年の間、ほとんどピアノに触ろうともしなかったそうで、その衝撃の強さが伝わってきます。
クスリを止められなかったのは
当時は普通だったヘロインやコカイン
この時期のジャズ・ミュージシャンには必ずといっていいほどついてまわる逸話です。
彼が麻薬に手を出したのは結構早い時期で、それ以来止めたりまた始めたりの繰り返しだったと友人たちは語っています。
忠告もしたようですが、結局エヴァンスは亡くなるまで麻薬との縁を切ることはできませんでした。
友人が彼の言葉を紹介していますが、始めた頃は命を取られるとは思わなかった気軽さだったようです。