サヤカの喪失感は計り知れず、まだ少女のサヤカにとってあまりにも過酷な運命です。
仮に彼女がルーとフセの死に耐え切れなかったら、フセと一緒に赤い電車に乗り込む彼女の姿が描かれたことでしょう。
しかし彼女がホームに残されたことで、彼女自身が生きる選択をしたと考えられます。
「私は生きる」などというセリフを使わずに、観る人にサヤカの意思を示す手法は見事といえるでしょう。
サヤカは希望
もしサヤカもフセ達と一緒に電車に乗っていたら、彼らの悲しみや悔しさは無かったことになってしまうと考えられます。
悲しみや悔しさを持ったまま生き続けるサヤカ。彼女が存在することは、死んでいったフセ達の意思を受け継いでいるのと同じはずです。
彼女が生きることはフセ達の想いが生きること。サヤカは彼らの希望であり、彼女が生かされた意味もそこにあるのだと考えられます。
命だけでなく想いも生きるのだと監督は言いたかったのではないでしょうか。
重い病気を隠して
重い病気を患っていたフセは、その事実を隠してサヤカに会っていました。
自分の命を削る行為にも関わらず、彼女に会っていた意味はなんだったのでしょうか。
悲しみの共有
大切な者を失った悲しみは当事者でないと分かりません。フセの周りには、その想いを共有できる人がいなかったのではないでしょうか。
サヤカが初めてフセに会った時、気難しいタイプに見えました。そんなフセが心を開く相手は限られていたはずです。
病気の治療よりも悲しみの解放の方が有意義だったのでしょう。どうせ死ぬならという気持ちもあったのかもしれません。
悲しませたくない
自分が重い病気だとサヤカが知ったら悲しむので言い出せなかった可能性もあります。
ただでさえルーを失った悲しみに暮れているのに、さらなる悲しみの上乗せは酷だと思ったのではないでしょうか。
フセ自身がその辛さを知っているからこそ、真実を隠してまで会い続けたと思われます。
死が生を輝かせる
間近で大切なものの死を知ったサヤカは、心に傷を負って病んでしまったでしょうか。
確かにフセ・愛犬ルーとの別れは深い悲しみをもたらしたと思います。しかし彼女はそれ以上に命の大切さを学んだはずです。
もしかしたら自分だって明日死ぬかもしれないと思うと、今を一生懸命生きなくてはと感じるでしょう。
この作品はサヤカを通して「生きることとは」を私たちに考える機会を提供しているのです。