それは光代との出会い。彼女は祐一の全てを肯定してくれる存在だったのだろうと思われます。
親の愛情を知らない
2人は男女の愛を育んでいましたが、それ以上に家族としての愛情もそこにはあったのではないでしょうか。
母親に捨てられたというトラウマも光代に癒されていたはずです。
そう考えると、祐一が出会い系サイトで女性を物色していたのも、母親から受けた傷を埋めたかったからかもしれません。
祐一は「女性から受けた傷は女性しか癒せない」と思っていたように見えます。
灯台が見える場所
母親に捨てられた場所からは灯台が見えました。彼の中では「母の記憶=灯台」だったのではないでしょうか。
灯台のふもとから走って来る光代の姿は、自分を約束通り迎えに来た母親とオーバーラップしたと考えられます。
自分は捨てられていなかったという安堵感。凍りついていた祐一の心は一瞬で溶けたはずです。
そして祐一は、光代のためならどんな厳しい罰でも受けるという覚悟を決めたと推測できます。
佳男の叫び
佳男にとって娘を殺した犯人が一番憎い相手だと思います。しかし同様に増尾への憎しみもありました。
それは単に娘を山道に置き去りにしたという理由だけではなく、増尾自身の考え方に腹が立ったように見えます。
佳男にとっての大切な人とは佳乃です。きっと命にかえても守りたかったでしょう。それに比べて増尾の人生は薄っぺらいものです。
仲間に武勇伝を語って虚勢を張るしか脳がない増尾には、大切な人を失う苦しみを理解できるはずがありません。
そんな奴が娘の死に関わっていたかと思うと悔しかったでしょう。
ではもしこの言葉を娘殺しの張本人である祐一に投げたらどうだったでしょうか。
祐一には大切な人ができたのですから、佳男の気持ちは痛いほどよく分かるはず。
彼らは被害者の親と加害者という立場なのに、ここで気持ちが通じ合うとは皮肉な話です。
「悪人」まとめ
誰が悪人か断言することは非常に難しい問題です。なぜなら人間は常に善人なわけでも悪人なわけでもないのですから。
人生の瞬間瞬間を切り取って善悪を判断するのは簡単ですが、その瞬間だけで人生を語れるはずがありません。
つまり誰もが悪人になりうるのです。
タイトルは「悪人」ですが「人間」と置き換えることも可能であり、この映画はまさしく人間そのものを描いた作品であるといえるでしょう。