銭湯で殺人を犯すことは意外と合理的で、もしかしたら本当に起こっているかもしれないと錯覚してしまいます。
地元の人々の憩いの場である銭湯は、日常感を演出するのに適した場所です。
その存在は私たちの生活に密着し、外の世界とは隔離されている感覚さえ覚えます。
そんなザ・日常ともいうべき銭湯で殺人が起きる意味は何でしょうか。
それはやはり、「もしかしたら私たちも殺人という特殊な場面と遭遇するかもしれない」という疑似体験をさせること。
そんな制作側の意図があったと考えられます。
良心の呵責が無い理由
普通ならば人を殺した場合、罪の意識・良心の呵責に耐えられないはずです。
しかしそんな当たり前な感情が和彦には見受けられません。なぜ彼はこれほどまで無頓着なのでしょうか。
現実との乖離
殺人という非日常と銭湯という日常が彼の感覚を狂わせたともいえるでしょう。
それと和彦が社会と接する経験に乏しく、非日常の感覚が抜けていないとも考えられます。
実際、残虐で攻撃性の強いゲームばかりしている子供は、感覚が麻痺して現実でも暴力行為に抵抗がなくなると問題視されることがあります。
このこともあわせて考えると、和彦が現実を現実と捉えられていなかった可能性も否定できません。
親の教育
撃たれた松本を和彦の家に連れて逃げた時、彼の両親は何も気にすることなく暖かく迎え入れていました。
普通だったら明かに異常な事態なのですから、疑惑の目を向けて警察を呼ぶなり、事情を聞くことは最低でもすると考えられます。
ですが両親の態度を見ると、彼らも和彦と同様に現実を現実として受け止められない人間であることが分かるでしょう。
つまり人殺しをしても和彦が良心の呵責を感じなかったのは両親にも原因があるのだと推測できるのです。
まとめ
銭湯が殺人場所となる設定は斬新ですが、考えてみると合理的であることに驚きます。
この日常と非日常の組み合わせが、観る者を映画というフィクションの世界を、より身近なものに感じさせる要因になってました。
そして主人公の和彦の成長と、殺人をやめた後に訪れる平穏な結末は私たちに何を投げかけるのでしょうか。
毎日だいたい同じような生活で飽きている人に是非観ていただきたい作品です。