困っている人に手を差し伸べた時に、相手から「大丈夫」と言われたらどうしますか?それ以上手出しも口出しもできないはずです。
「大丈夫」には「問題無い」の他に「関わらないで」という意味も含まれています。
「関わらないで」は一種のバリケードであり、己を守ろうとしているのです。
ララは父から差し伸べられた手を救いの手だと認識してはいなかったのでしょう。
父が理解しようとする気持ちさえも、ララにとっては攻撃に感じたようです。
この攻撃は善意ある行動だっただけに邪険にできず、「大丈夫」というバリケードを立てる以外方法が見つからなかったのではないでしょうか。
理解への諦め
なんとかララを理解しようと努めている父ですが、ララからしてみれば当事者ではない父に期待を寄せていなかったのかもしれません。
「どうせ誰にも理解できない」という周囲の理解への諦めが「大丈夫」に滲み出ているように見えます。
何を答えても自分の望む結果は起こらないのだから、無難に答えておけばいいだろうと考えていたのではないでしょうか。
自分への諦め
他者からの理解を諦めているララは、自分自身にも諦めているように見えます。
どうせ何をしても良くならないという絶望感が彼女を追い詰めていたはずです。
現状・未来どちらにおいても突破口が見えないのですから、よほど精神力がない限り自ら道を開くのは不可能。
そんな現実に失望したララが自分自身に諦めていたと考えられます。
そして遂にララは壊れてしまいました。救いのない彼女はこの後どうなったのでしょうか。
ラストシーンに映し出された美しい彼女の姿をヒントに考察していきます。
その後
ラストは穏やかな陽の光の中、美しい女性になったララの歩く姿で締めくくられました。
絶望の淵にいたララがこれほどまで輝くことができた理由は何なのでしょうか。
これから先どんな未来が彼女を待っているのか考察します。
ジェンダーからの解放
きっとララは性適合手術を受け、女性の身体を手に入れたのだと思われます。
望む性にぐっと近づいた彼女の精神は安定し、以前ほど性別に固執しなくて済んだのではないでしょうか。
心に余裕ができたからこそ余計に女性らしさが身に付いたのかもしれません。
そして本当に自分が追求すべきものは自分らしさだと気付いたのかもしれません。
自分らしさは彼女を輝かせ、本来持っていた美しさを発揮させたと考えられます。
待ち受ける未来
ララがプロのバレリーナになっているかどうかは、ラストシーンから判断するのは難しいです。
しかしバレリーナになっている可能性は低いように思われます。
もしプロになっていたなら、バレリーナ姿のララがラストに映し出されるはずです。
そう考えるとやはりバレエの道を諦め、新たに自分らしさを表現できるものを見つけたのではないでしょうか。
まとめ
ジェンダーレス時代といわれる現代。ララのように性に悩む人の存在を無視することはできないはずです。
私達はみな自分らしさと他者との間で板挟みになっているにすぎません。
そんな共通の悩みや苦しみを「トランスジェンダー」だからという理由で特別視していいのでしょうか。
本作はトランスジェンダー映画ではなく、万人に通じる葛藤を描いている映画なのです。