また、彼自身、盗撮行為によってパラドックスの中に迷い込んでいます。
優しかった母の遺言で、自分のマリア=愛する女性を求めるユウ。
同時に、父に罰せられ、盗撮という女性に性的関心を持つ犯罪行為をキリスト教的な罪として強く自覚しています。
一方ヨーコが嫌悪しているのは男性性。
父親による性的虐待から男を毛嫌いしています。
しかし、愛と性はとても近い場所にあるもの。性の否定は、愛の否定にも繋がりかねません。
この映画において、愛は大いなるものとして語られます。登場人物の問題を解決できるものは、ほかでもない愛。
しかし、愛は否定されてしまうと無効です。
ユウとヨーコが心の傷を癒すためには、性と愛の両方を受容する必要がありました。
性の受容、愛の受容
最高潮にヒートアップするユウのヨーコ奪還作戦の顛末のあとに描かれる最終章。
愛を求め続けたユウは記憶喪失に。ここで描かれるのは、今度はヨーコによるユウの奪還作戦です。
自分をサソリだと思うユウ
サソリの姿は、ユウの愛を求める気持ちの表れであり、同時にありのままの自分では愛を得られないという心理も象徴しています。
元々彼は、ずっと自分を偽って生きてきました。
蟻も殺せない性格だったのに不良になり、性的興奮を得ないのに盗撮に励んだのは、父親のため。
罪の告白をして、父の愛情を得ようとしたために本来の自分を殺してしまっていたのです。
そしてサソリの姿は、ヨーコに好かれるためのもの。
愛を求めようとするとき、ユウは、自分ではないものに変身してしまうのです。
ゼロ教会からのヨーコの救済に失敗し、彼女の愛を得られなかったユウは、自分の本来の姿を完全に見失ってしまいました。
ユウが救済されるには、彼は自分自身を受け入れる必要があります。
なぜヨーコはユウの元を訪ねたのか
親戚の家で、ヨーコはたびたびユウのことを思い出します。
きっかけはその家の子ども、百合。ちなみに演じていたのは子役時代の松岡茉優です。
百合が好きな人について興奮気味に話す様子は、かつてサソリに恋していたヨーコそのもの。
そして百合が涙に血が混じる話をしたとき、ヨーコははじめて気が付きます。
血の涙を流していたユウが、心から自分のことを愛し救おうとしてくれていたことに。
それはヨーコが生まれて初めて受けた強い愛情でした。ヨーコはまた、男性であるユウを愛する自分も認知します。
愛をくれたユウを、今度は自分が救い出す番だ。
そう決意したため、ヨーコはユウの元を訪れたのでした。
ユウの復活
ユウが記憶を取り戻した瞬間、彼のペニスは堂々と勃起をします。
これは彼の中で性とヨーコへの愛が結びつき、受容された瞬間でした。
ヨーコの元へと走る途中、彼の身から剥がれ落ちていくサソリの装束。ユウが今度こそ自分自身でヨーコに向き合うことを示しています。
ヨーコの愛の告白は、ユウに自分のありのままを受け入れさせることに成功したのでした。
手を握るということ
行動科学者のデズモンド・モリスが提唱する、親密さの12段階をご存じでしょうか。
これは、恋愛関係の進度を段階にわけて示したもので、まず相手が視界に入るところから始まり、最終段階を性交としています。
この中で手を握る行為は、恋人同士としての歩みの初期段階です。