この地域には多くの大学が集まっていて、1960年代には学生による反体制運動が盛んに起こっていました。
港南学園の文化部棟は「清涼荘」という名前がありますが、この反体制運動の息吹にちなんでカルチェラタンと呼ぶようになりました。
徳丸理事長への直談判
徳丸理事長がカルチェラタンを訪問しようと決断したのは、水沼史郎や俊の熱意によるものではありません。
高校2年生の女の子がどうしてカルチェラタンの存続を願っているのかに興味があり海に動機を聞いたからです。
(カルチェラタンが)好きだからです。大好きだからみんなで“大掃除”をして綺麗にしたのでぜひ見に来てください。
引用:コクリコ坂から/配給会社:東宝
聡明でシンプルな回答の海に父親の職業を聞き、朝鮮戦争でLST(戦車揚陸艦)の船長として事故死したと知り訪問を決めたのです。
LST(戦車揚陸艦)とは?
終戦後の引き上げ船や朝鮮戦争時には米軍への武器物資の輸送や掃海作業を行った船を「日本特別掃海隊」と呼びこのことをLSTと呼んでいたようです。
海の父はその引き上げ船の中に立花夫妻をみつけ俊を一時的に引き取ったのでしょう。
また以後は「日本特別掃海隊」として朝鮮戦争の後始末をしに日本海に出て、機雷によって船が沈没し死亡したのです。
理事長がカルチェラタンの取り壊しをやめた真意
解体賛成80%からの大逆転
大掃除を始めた生徒たちに触発され解体の賛成側にいた生徒も掃除に参加し解体反対側に転じます。
見学をしに訪問した徳丸理事長を歓迎したのは、自分達の学び舎を自らの手で蘇らせ建物への愛着が芽生えた生徒たちです。
そして、その生徒たちの本気度と愛着を目の当たりにし決断した徳丸理事長はこう言ったのです。
「教育者たるもの、文化を守らずして何をか言わんやだ!」
引用:コクリコ坂から/配給会社:東宝
上を向いて歩こう
世の中の大人達は浮き足立って、古いものが悪く新しいものを良しとする風潮に流されている中にありました。
若者が古き良き物を継承し守ろうとする熱意を徳丸理事長が理解できたのは、理事長自身も哲学や文化に精通した博識があったからです。
親子のリレーを描いた作品
この映画は宮崎駿の長男である宮崎吾朗が監督を担いました。
脚本は宮崎駿が担当しているので、制作中には吾朗氏と作品に対する捉え方の違いがあったと言われています。
古き良きものを後世に伝えるノウハウや受け継ぐ者の残し方には、その姿勢や信頼関係の上に成立するとこの作品は訴えています。