長所と短所は常に表裏一体であり、海の独創的な演奏は型破りな反面それ一つで時代を作る力があるのです。
ピアノに限らず日本の音楽はどこか真面目できちんとした完成度の高いものを求める傾向にあります。
それはそれで悪くはないものの、日本の音楽はともすれば小さくまとまってしまいがちです。
海の演奏はそんな教科書通りの演奏など一蹴してしまう程の破壊力と創造力を持っているのでしょう。
それは音楽の歴史や技術、伝統によって凝り固まっている審査員達からすれば面白くないに決まっています。
音楽はショーではなく芸術
こうした海のコンクールの予選落ちには音楽が本来ショーではなく芸術であることを示しています。
今でこそCD販売をはじめショービジネスの側面が強くなりましたが、そうなるほど本来の面白さは遠退くのです。
楽譜通りに正確に弾く、それだけなら人間ではなくAIプログラムの発達したロボットでもいいでしょう。
つまり、修平や誉子の演奏はいってしまえば教科書演奏・ロボット演奏と皮肉ってしまえます。
大変よく出来ているけど音楽そのものに深みがなく、世界に出て通用する音楽かといえば話は別です。
だからこそ海の演奏はちっぽけな日本の狭い枠に収まりきらない規格外の音楽だといったのでしょう。
幾分皮肉も込めて日本の音楽業界が如何に狭い井の中の蛙かを描いているのかもしれませんね。
観客受けか自己の追求か
天才型の海と秀才型の修平、二人の違いは詰まるところ「観客受け」か「自己の追求」かという葛藤に行き着きます。
恐らく楽譜通りに寸分の狂いもなく弾け、かつ観客受けのいい技術ある演奏が出来るのは秀才の修平でしょう。
しかし、自己の追求という点において既存の音楽を破壊し独自のピアノ演奏を作り上げる海こそ真の芸術家です。
これは同時に真の天才とは英才教育だけで生まれるものではなく、また逆もしかりということでしょう。
観客受けと自己の追求のバランス、これは永遠の課題ですが一時代を作り上げるのは間違いなく自己の追求です。
そのことを海に学んだからこそ修平は改めてピアノ演奏に意義を見出せるようになったのではないでしょうか。
真の天才とは「楽しめる」人
こうしてみると、実は最終的に海と修平の違いを通して真の天才とは「楽しめる」人であることが分かります。
そしてそれは持って生まれた才能以上に「気持ち」の問題が非常に大きいのではないでしょうか。
海は楽譜通りに引くことの苦しみも辛さも知りながら、しかしその上で尚音楽が「好きだ」といいます。
しかし、修平にはそのような音楽を「楽しむ」という気持ちが海に出会うまでは感じられませんでした。
彼の演奏は常にどこか辛く苦しく、何か義務感にも近い気持ちで演奏していたのではないでしょうか。
そんな彼が努力を努力と思わず心底からピアノ演奏を楽しめる海と出会って大きく変化しました。
そして今急激に変化していく時代の中では海のようにどんな苦境でも楽しめる天才が必要なのかも知れません。
海のようにはなれなくとも、海のように何かをとことんまでのめりこんで楽しむ心は忘れず持ちたいものです。