出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B000ZFTNGW/?tag=cinema-notes-22
本作は1999年にキンバリー・ピアース監督が製作したアメリカ映画です。
この当時はまだ世間の認知度が低かった性同一性障害という極めて難しい性の問題を扱いました。
ネブラスカ州で起こったブランドン・ティーナの強姦・殺害事件の実話が基なのでドキュメンタリーでもあります。
主演のヒラリー・スワンクとクロエ・セヴィニーの演技力の高さと作品全体の完成度から以下を受賞しています。
アカデミー主演女優賞(ヒラリー・スワンク)
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)
インディペンデント・スピリット賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞
全米映画批評家協会賞引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/ボーイズ・ドント・クライ
あらすじはブランドンとラナのやや複雑な愛の物語をベースに人間の業へと深く切り込んで迫っていく構造です。
今回はその中でもブランドンが手紙を遺していた理由をネタバレ込みで考察していきます。
また、ラナの娘の父のことや性を超えたブランドンとラナの愛についても深く掘り下げていきましょう。
性同一性障害とは
まず本稿を始める上で絶対に欠かせないのは性同一性障害への正しい知識と理解です。
性同一性障害とは心の性(性自認)と身体的性(生物学的性)の不一致を指します。
具体的には二種類、性自認が女性で身体的性が男性と性自認が男性で身体的性が女性のパターン。
本作や「金八先生」で扱われていた性同一性障害は後者の方で描かれています。
更に問題なのはいわゆるジェンダー(社会的性)という「周りの目」までが加わってくることです。
心の性が体の性と違うだけで彼らは性的少数派として差別・偏見を受けることを宿命づけられています。
それ程に複雑な性の問題にどのように向き合ったのかが本作の見所です。
ブランドンが手紙を遺していた理由
本作のラストシーン、ブランドンは無残にもジョンとトムに強姦された挙句殺されてしまいます。
従兄弟のゲイであるロニーが「フォールズ・シティの連中はオカマを殺す」と忠告した通りです。
しかし、最後に手紙をキャンディスの仲間にして恋人ラナへ書き綴って遺していました。
一体何を伝えようとしていたのでしょうか?
“男”として生きた証
まずは手紙の内容自体をしっかり解釈してみましょう。
君がこれを読む頃俺はリンカーンにいる。
この先とても不安だけど、君を思えば生きていける。
メンフィスはそう遠くない、俺もハイウェーの旅に出よう。
君を待っている。永遠の愛をこめて。引用:ボーイズ・ドント・クライ/配給会社:20世紀フォックス
まずここでブランドンの性自認はあくまでも”男”であることが分かります。
一人称が「俺」ですし、「君を待っている」という文章は男の心がないと出てきません。
強姦までされ殺されて無力さを思い知らされたのに、ブランドンの心は男のままです。
このプライドを死に際まで貫き通した証として言語化したものではないでしょうか。
“自分”を生きた証
男であると同時にブランドンが“自分”として生きた証にもなっているのです。
心の性と体の性が違うだけで社会全体から爪弾きにされ差別と偏見の対象にされてきたブランドン。
この手紙はそんなブランドンの社会や周囲の目に抗いながら生きたアイデンティティーが詰まっています。
自分らしい自分であるという普通の人でも難しいことをブランドンは意識して目指しました。
「永遠の愛をこめて」という言葉は他の誰でもないブランドン・ティーナ個人だという主張が表現されています。
それだけ気高い魂を持って生きたことを意味するのです。
居場所を確立出来なかった悔しさ
しかし、そのような美しさだけではなく、同時にブランドンの悔しさや絶望も表現されています。
「俺はリンカーンにいる」はフォールズ・シティにも居場所がなかったブランドンの絶望があるのです。