ハード・アクションの映画版において、このIBMのフレンドリーなキャラ設定は映画にバランスをもたらしています。
映画版における海斗の不在の理由とは
海斗は永井圭の唯一の友人であり、彼が亜人だと判明してからも変わらず友情を守り続けた人物です。
原作では人を殺めようとする永井の心の中に現れて歯止めをかけようとします。永井の良心のメタファーともいえる大切な人物です。
しかし映画版では登場しません。重要なキャラだけにここには映画の監督や脚本家の大きな思い入れがあるはずです。
それはおそらく佐藤の極悪非道振りが際立っていたからではないでしょうか。
実写の映画では佐藤の殺戮劇が観る側にもよりリアルに伝わってくるものでした。
佐藤はニューヨークの9.11テロのように大型旅客機を平気で高層ビルにぶつけるような男です。
永井は政府からの拘束期間がたった2年だったこともあり、復讐の鬼と化した佐藤とは心理的な距離があります。
そのため強い良心の力がなくとも永井は悪に染まることはありません。監督はそう判断して海斗を登場させなかったのではないでしょうか。
映画が亜人の死に深い解釈を与えなかった理由とは
原作において亜人には「断頭」というものがあります。亜人はバズーカ砲などで木っ端微塵にバラバラにされても生き返ることができるのです。
しかし頭脳自体がいわばリセットされるため、同じ人格を持って再生することはできません。
つまり原作では肉体の消滅によって心と体が分離し、魂が抜けるような現象が起こることになります。
映画でもバラバラになった亜人が、霧のようになってから再結合して元通りになるさまが描かれていました。
佐藤が腕一本だけで別の場所から転送されるシーンなどがそうです。しかし佐藤の人格は一貫していました。
同様に最終盤、永井が再結合したときも「断頭」は起こらず、彼自身であるかのように描かれています。
つまり映画版において亜人の死は非常にシンプルになっているのです。原作のように破壊による心身不一致が起こりません。
それもまたアクション重視の作風に合わせての設定変更ではないでしょうか。死の解釈を反映させれば明らかに物語の推進力がそがれます。
亜人はバラバラになっても元通りになるという単純なルールの方が勢いのある映画になることは間違いありません。
アクション映画としてのオリジナリティ
一般的なアクション映画は正義と悪のどちらかが死ぬことで物語が終結します。しかし『亜人』には死そのものが存在しないのです。
好奇心をかきたてられるエンドレスな戦い
この映画で描かれたバトルの構図を挙げてみましょう。
- 永井圭 vs 佐藤
- 下村泉 vs 田中功次
- 佐藤 vs SAT隊員
- 佐藤 vs 厚生労働省
- IBM vs IBM
このように多様なバトルが組まれているので飽きさせません。俳優陣のみごとなアクションやCGを使ったIBM同士の戦いも見応え満点。
本作はやはり何よりもアクション映画としての魅力にあふれた作品でした。
が、亜人は何度でも復活するのでエンドレスな戦いになります。ここが他のアクション映画にはない大きな特徴です。
観ている側としてはゴールが見えないので不安になります。戦いが終ってもカタルシスや爽快感を感じにくくなります。
しかし決着方法が見えないだけにバトルの行方に好奇心がかきたてられる面もあるでしょう。
実際、最後の永井と佐藤のバトルはそういった期待に充分応える終わり方だったといえるはずです。
陰惨なアクション映画
『亜人』のアクションシーンは何よりも強烈な怒りと反発心を感じさせるものです。
佐藤は自身に途方もない仕打ちを加えた政府に怒り、永井はそれを理由に極悪非道を繰り返す佐藤に怒ります。
それに加え本作はリアルな大量殺戮シーンも描かれます。そのためアクション映画としてヒーローものの対極にあるような陰惨さがあります。
特に佐藤とSATの部隊が戦うシーンは多くの人は正視するのも難しいものでしょう。