佐藤は次々と警官を撃ち殺した末に1人きりになっても疲れをぼやいただけで満足する様子もありませんでした。
国を相手に戦った勝者なのに最後に得たものは空虚感だったという感じです。それもまた彼の戦う動機が猛烈な怒りと反発心だったからでしょう。
復讐のバトルとはほとんどの場合、勝敗に関わらず空しいものになる定めなのでしょうか。
アクション描写の陰惨さは、観る人に対しさまざまな思考を喚起させるきっかけになったはずです。
目的が半端なく大きいアクション映画
『亜人』のアクション映画としての特異性にはその目的の圧倒的な大きさにあるでしょう。2点見てゆきます。
東京を取る
亜人の特別自治区を要求する際、政府の北海道案などに対し佐藤が東京しか認めないという態度を示すシーンは爽快です。
東京を取るということは日本を掌握するということ。つまり佐藤はチェ・ゲバラのような国家転覆を企てる革命のリーダーだとも見れるのです。
これ以前に佐藤は厚生労働省のビルに旅客機をぶつけていました。それだけに観る側はどれだけ話がふくらむのだろうとワクワクさせられます。
さらに神経ガスで東京都民を追い出す案にはリアリティがあります。大きな目的の中リアルに話が進むアクション映画は本当に魅力的です。
敵は政治的な迫害にあり
亜人の最大の敵とは、根本的に見れば日本政府によるマイノリティへの迫害になるでしょう。
作中におけるそのマイノリティは亜人、そして非亜人の人間がマジョリティです。
日本政府は死んでも生き返る性質を持つ亜人を受け入れるのではなく、金儲けのために研究材料として利用しようとしました。
自分とは違う他者に対し利用価値が有ると分かれば痛みを与えても利用し、無いと分かれば切り捨てる。
『亜人』は根本的にはそんな政治的な迫害・国家的な差別をテーマにした作品だといえます。
このように現代社会の根幹に切り込むテーマは、アクションを重視したこの映画に重厚さをもたらしたといえるでしょう。
監督と俳優の言葉から読み解くアクション映画にした理由
監督と俳優のコメントからこの映画を読み解きましょう。
本広克之監督がアクションに込めた意図
本作の本広克行監督は、社会現象を巻き起こした『踊る大走査線』の演出を務めた映画のスペシャリストです。
彼は『亜人』の実写映画化についてこう語っています。
「なるべく内容は変えないで、キャラクターを少なくシンプルにして
『亜人』の場合はアクションにしようと思いました。だから、オープニングはめちゃくちゃ展開が早いんです」
出典元:www.cinema-life.net/interview/1804_ajin/
原作には原作に必要な多くの要素があります。それら全てが映画化に必要かというと、本広監督の答えは「NO」だったのでしょう。
映画『亜人』に必要なものだけを拾ったシンプルな構成の中でアクションを際立たせ、なおかつ考えるきっかけも与える。
本広監督にはそんな狙いがあったはずです。アクション重視の構成は、おそらくその方が映画らしいと思ったからはないでしょうか。
映画は何よりも感覚に訴えるものだというポリシーは『踊る大走査線』の中にもしっかり生きていました。
アクション重視の映画は綾野剛の才能を解き放った!
「僕のなかで、佐藤がSAT(特殊急襲部隊)と対峙する場面と、圭とのラストバトルが主軸でした」
出典元:https://eiga.com/movie/85936/interview/
このコメントは決して個人的なものではありません。映画『亜人』の魅力の本質を言い当てているのではないでしょうか。
『亜人』の映画版の魅力はやはりアクションに尽きるでしょう。そしてそれを誰より牽引していたのは綾野剛という俳優でした。
彼が演じる佐藤は1人でも映画を最後まで引っ張ってゆける魅力に満ちていました。大量殺人鬼でありながら、軽快かつユーモラスな面もある。
そんな佐藤はジャック・ニコルソンが演じたジョーカーにも通じる新鮮なヴィランだったといえるでしょう。
アクションを重視した映画の新解釈は、何より綾野剛の才能を開花させることにつながったといえます。
アクション映画ならではの続編への含み描写
映画の最後に佐藤のハンチング帽が拾われるという意味深な含み描写がありました。佐藤は生き返ったのでしょうか。
あるいは帽子を拾ったのが永井だったのなら、彼は一緒に粉砕された佐藤と人格が同一化してしまった可能性もあります。
続編を臭わせる含み描写はアクション映画ならではの魅力の1つです。この最後の最後にもアクション重視の効果があったといえるでしょう。