この点において息子の方が正しいとマーシャルが思ったからこそ、最後に歩み寄りの姿勢を見せたのではないでしょうか。
愛する息子だからという理由もあるとは思います。
しかしそれとは別に、一人前になった息子を自分の子供という視点ではなく一人の人間として受け入れたのではないでしょうか。
父親の成長
この映画は、両親のいうことを聞いてきた息子が、自分の意見を主張できるまで成長した姿を描いた作品です。
しかし成長したのは息子だけでなく、彼の両親特に父親の成長を描いているように見えます。
息子の同性愛を知り、仲間に相談して解決しようとした父。何でも宗教に頼ろうとする姿勢は、息子としても疑問だったでしょう。
そんな父親も宗教の壁を乗り越えようと努力している様子が窺えます。
父親が個人として息子をどう理解するか。マーシャルが人間として成長した姿が描かれているのだと思われます。
車窓から手を出す意味
幼い子供が車窓から手を出すことはよくあります。ですがジャレッドが手を出したシーンには何か特別な意味が込められていたようです。
親離れ
車は窓を閉め切ってしまうと密室です。無理やり閉じ込められていると感じるかもしれません。
それはまるで本来の自分を出せずに、周りが期待する自分を演じなくてはいけない息苦しさに似ています。
窓を開けることは、自分と外界を繋ぐ手段です。
両親にいわれるがまま施設に入ったジャレッドですが、それは塀の中に追いやられている状態でした。
車窓から手を出すことで彼はその塀を破り、親の庇護から脱出して自分の力で歩こうとしているのです。
そう考えると車窓から手を出す様子は、親離れしたことを象徴するシーンだといえるでしょう。
新たな一歩
窓から手を出してみて初めて分かるのが、風を切る心地よさでしょう。そしてその心地よさを知ったジャレッドは笑顔になります。
もしかしたら外界は自分に害を与えるかもしれません。
でもそれを恐れずに手を出すことは、積極的な交流を求めている証拠であり、本当の姿を他者に見せる行為といえるでしょう。
同性愛者であることを明かす第一歩がこの場面に表れているように見えます。
まとめ
キリスト教では同性愛行為が罪となっているため、同性愛者は非難を受け入れるしかありませんでした。
人々を幸せにするはずの宗教で、不幸になる人がいる事実。
互いに尊重し合う生き方を模索するためには、色々な垣根を取っ払う必要性が出てきます。
グローバル化社会に生きる私たちも、自分の常識の範囲外の物事を受け入れる時が来るはずです。
そんな時、彼らのように本質を見極める目を求められるのではないでしょうか。