葉山にとっても、そして泉にとっても何だかんだ尾を引いたのですから簡単には消えません。
しかし、その消えない想いを真っ直ぐに見つめることで表現したのです。
思えば二人がお互いを見つめ合ったのは意外と少なく殆ど一方通行でした。
だからこそこのシーンで二人の視線が混じり合う瞬間として印象に残ったのではないでしょうか。
恋から愛へ
このシーンで二人の想いは決して重なることはないけれど「愛」として示されています。
愛という漢字は元々好きな人と別れがたく、後ろ髪を引かれる思いで立ち尽くす人の姿を表わしたものです。
正にお互いを慈しみ後ろ髪引かれる葉山先生と泉の想いが「恋」から「愛」へ消化された瞬間ではないでしょうか。
電車によってそれが遠く離れていくため二人の人生は重なることはなく、だからこそ泉は涙を流したのです。
一方の葉山先生にとっては体を重ねようが惹かれようが妻の元へ行くという決意は変わっていません。
即ち泉の気持ちはエロス、そして葉山先生の気持ちはアガペーとしてここに示されているのです。
心の卒業
そしてもう一つ、上記でも触れた動かない懐中時計の意味がこの別れのシーンに補足されます。
宮沢によればこの時計に込められた想いは「幸せでありますように」であり、正に無償の愛です。
つまりこの別れのシーンは泉が葉山先生から心の卒業を果たした瞬間ではないでしょうか。
だからこの別れは卒業式と送別会をも兼ねており、ずっと葉山先生に依存していた泉の自立でもあります。
涙を流しながら、愛を持ちながらもやっと泉はこの時葉山先生から独り立ちを果たしたのです。
綺麗ではないが前向きな物語
本稿では葉山先生と泉を中心に見てきましたが、ここでもう一つ小野と泉の関係性も取り上げておきましょう。
この二人も決して健全な関係とはいえず、付き合ったはいいものの泉が葉山先生との未練を断ち切れないでいたのです。
かといって小野もそんな彼女と別れることも出来ず、兎に角自分の方に振り向いて欲しいと必死に靴を脱がせたりします。
ですが、どうにもならない歯痒さばかりが募り、本作の男女の愛は基本一方通行で凄まじく未練がましいものです。
しかし、最後にはお互いの気持ちにきちんと整理をつけて前に進むため、綺麗ではないが前向きな物語になっています。
だからこそ後味の悪いものにはなりきらず、ほろ苦いけれどまろやかな作品となっているのではないでしょうか。
愛とは”弱さ”である
葉山先生と泉と小野、三者を中心にして示されていることは愛とは”弱さ”であるということです。
本作において愛は決して全面肯定されず、常にそこに現実の残酷さや痛々しさがつきまといます。
未練を断ち切れないまま引きずり、その愛を無自覚に振り回して周りの人達を傷つけるのです。
だからこそ本作の登場人物は情けなく格好悪く、そして醜く描かれていたのではないでしょうか。
そのような“弱さ”を正当化せず前面に押し出して向き合って愛へと昇華したのが本作です。
それを過去回想という形でやや美化された記憶のように見せている独特の不思議さがある作品でした。