オーウェンが肉食恐竜を手なずける訓練をしていなければ、人類と恐竜の結託などなかったかもしれません。
確かに敵に回せば脅威ではありますが、一定の環境に落とし込んで味方につければ正に鬼に金棒です。
動物園やペットのような感覚で飼い慣らされた恐竜故に暴走を抑えられたのではないでしょうか。
共通の敵がいる
そして結託した最大の理由はインドミナス・レックスという共通の敵が居たからです。
インドミナス・レックスはあらゆる恐竜のDNAのいいとこ取りをして生み出された究極の人造恐竜です。
ポケモンでいえばミュウをモデルに作られたミュウツーのようなもので、その暗黒面の体現者でしょう。
人類のみならずまさか同じ恐竜が自分達の生活を脅かすことになるとは誰も想像しえませんでした。
だからこそティラノサウルス・レックスを切り札としてインドミナス・レックスを倒せたのです。
あくまでも特殊な条件の下に味方していたことを忘れてはなりません。
例外はティラノサウルス・レックス
そして人類に唯一味方しなかったのが切り札ティラノサウルス・レックスではないでしょうか。
彼がインドミナス・レックスと戦ったのはあくまでも凶暴な性格から来る闘争本能故です。
だから彼は人類の味方をしたのではなく自分にとって邪魔な恐竜を排除しただけなのです。
その証拠に廃墟と化し無人に戻った島で野生の自由を取り戻した歓喜で雄叫びを上げました。
つまり恐竜を相手に人間が出過ぎた真似をしていたことをこのシーンは描いているのです。
恐竜もあくまで自然の一部、人間がそれを飼い慣らそうとすること自体が烏滸がましいのかもしれません。
他者をコントロールすることはできない
インドミナス・レックスがそうであるように、人間も恐竜も他者をコントロールすることはできません。
これは同時に今世の中が何でもデータによって人を管理することへの警鐘でもあるのではないでしょうか。
どんな生物も他者に影響を受けているのではなくあくまでも自分の判断で物事を決めているのです。
クレアとオーウェンが復縁したこともお互いを尊重し対等な関係を築けたからに他なりません。
そのことを本作は恐竜絡みのパニックを通じて捉え直そうとしたということが推測されます。
自分を動かすのはあくまでも自分であることが結末の一番訴えたいことでしょう。
自由と規律
本作が描こうとしたことはつまるところ「自由と規律」にあるのかもしれません。
恐竜たちはあくまでも自由によって動き、人間の規律など必要としないはずです。
それは人間も同じで、本来は自らの意志に従って動き規律はその後についてこないといけません。
個々人の自由を尊重することと規律によって統制を強めることはどこまでも二律背反の要素です。
クレア達恐竜を管理する人間達は今回のインドミナス・レックスを通じてそれを見直したのでしょう。
そして恐竜たちも人間達も最後は管理を捨て去って自由へと羽ばたいていきました。
それは同時に本シリーズが「ジュラシック・パーク」の呪縛から身を離し羽ばたいたことを意味します。
そのような紆余曲折の末復活を遂げた本作は紛れもない名作ではないでしょうか。