大盛況の後、何と役に憑依していたフォンソが病院に火をつけ、更にアルマに殴りかかりました。
ここはもはやフィクションを超えてかつての病院の悲劇が起こってしまったのです。
そう、これはアルマがやって来た無茶が因果応報として跳ね返ってきた形になりました。
救いだったのはこの時サラがギリギリの所でビアンカを病院から脱出させたことです。
これで全員死亡は免れたもののフォンソ、サラ、アルマは亡くなってしまいます。
現実と幻覚の区別がつかなくなる
唯一助かったビアンカも決して無事ではなく、現実と幻想の区別がつかなくなる後遺症が残りました。
父と一緒に平和に暮しているものの、クラッソから届いた本や今居る現実を認識出来なくなったのです。
更にその後フォンソから教わったライターに火を灯してその先に見えない筈のものを見ようとします。
ここで終わりとなりますが、恐らくはビアンカもフォンソ同様家を大火事にするのではないでしょうか。
劇に関わった人々が全て死んだ中でビアンカだけ平々凡々と生き延びる甘い結末は考えられません。
明らかに人として踏み込んではいけない領域に到達してしまったことになります。
自分らしさを見失う
そして本作において一番の恐怖は“自分らしさ”を見失うことではないでしょうか。
ビアンカをはじめ役者達は皆自分達らしく演じることを大切にしていた節がありました。
また、ラストの方でビアンカは憑依ではなく自分の意志で役をものにして演じています。
だからアルマの方法は確かに一つのやり方であるものの、全ての役者に通用するものではありません。
寧ろビアンカ達だからこそ出来る役の作り方もまたあるのではないでしょうか。
ある意味本作で一番恐ろしいのは自身のやり方を盲信し本質を見失っていたアルマかもしれません。
役が先か、役者が先か
こうして突き詰めていくと、結局「役が先か、役者が先か」というコロンブスの卵理論に行き着きます。
アルマはきっと自分が理想とする構想があってそれに役者達をはめていく方式を選んだのでしょう。
しかし、現実には時間が無く中々そのイメージに合う役者がいないから仕方なく役者を先に選ぶケースもあります。
そして逆にその役者に併せて役を変えていくことで最初の構想を超えたものになるという化学反応もあるのです。
要はどちらのやり方であったとしても素晴らしい作品さえ出来上がればそれでいいのではないでしょうか。
そのことに気付けるか否かが今回の悲劇を引き起こすか否かの境界線となりました。
役に引きずられるな
本作を通して伝えたかったことは案外ストレートに「役に引きずられるな」ではないでしょうか。
確かに役者にとって一つの役を真剣にやりきることは大事ですが、役はあくまでも役です。
その為に自分の人生を破滅させるようなことがあっては本末転倒という他はありません。
プロの役者ほどいい意味で役のことについて下調べしたり考えたりしないといいます。