出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B07PBDMHT9/?tag=cinema-notes-22
映画『寝ても覚めても』は柴崎友香の原作恋愛小説を実写化した2018年公開の作品です。
『ハッピーアワー』でカンヌ国際映画祭を含む数々の賞を受賞した鬼才・濱口竜介監督が務めています。
第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にも出品され、主演は東出昌大と唐田えりかです。
朝子と亮平・麦の三角関係を中心に細やかな恋愛描写が共感を呼び、以下を受賞しました。
第42回山路ふみ子映画賞・新人女優賞
第10回TAMA映画賞最優秀作品賞・最優秀男優賞・最優秀新進女優賞
第40回ヨコハマ映画祭作品賞・監督賞・主演男優賞・助演女優賞・最優秀新人賞・撮影賞引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/寝ても覚めても#映画
本稿では朝子と亮平が川を眺めながら終わる意味をネタバレ込みで考察していきましょう。
また前半で朝子が亮平に目もくれず麦を選んだ理由やボランティアの真意も読み解きます。
理想と現実
本作の朝子の行動は表面上理解しにくそうですが、実は亮平と麦との対比の中で浮き彫りになります。
それは何かというと麦が「理想」、そして亮平が「現実」の象徴として描かれているということです。
姿形が瓜二つでありながら、どこか人間として危うく不安定さを感じさせる麦は女性にとっては理想でしょう。
一方「いい人」でありながら性格面も行動も不器用な亮平はどこまでも朝子にとっては現実でしかありません。
そんな白昼夢で生きていた朝子が理想通りに生きられないままならさを描き出したのが本作ではないでしょうか。
このことを念頭に置いて本作を考察していきましょう。
川を眺めながら終わる意味
本作の最後は東日本大震災の影響で膨れ上がった川を眺める亮平と朝子のカットで締めくくられます。
二人の表情にはキラキラした輝きなどはないのに、何故だか安心や信頼が見られるようです。
この終わり方に何の意味があるのかを考察していきましょう。
現実の中で生きること
まず本作の濁った川が示すのは亮平と朝子が向き合うべき現実の過酷さを示しているのです。
麦と一緒に居ることを望みながらもその理想を彼女が手にすることはありませんでした。
一方の亮平も朝子から散々な扱いを受けながらもめげずに彼女と生きる努力をしないといけません。
男と女が一つ屋根の下で現実と向かい合って生きていくことは楽しいことより辛いことが多いのです。
朝子と亮平はこれからもずっとこの濁流に揉まれながら生きることを暗示しているのではないでしょうか。
同じ方向を見つめること
二つ目のポイントは朝子と亮平がお互いを見つめるのではなく同じ方向を見つめていることにあります。
ここで示されているのは二人の関係が「恋」ではなく「愛」であるということでしょう。
偉大な作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはこういう名言を残しています。
愛とはお互い見つめあうことではなく、共に同じ方向を見つめることである
引用:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
夫婦の関係は一つのゴールや理想を見て進むことに意義があり、それはマヤの家庭も同じです。
ときめきこそしないけど、同じ目的を共有して一緒に乗り越えていける仲間ではないでしょうか。
台詞の裏に隠された意図
三つ目にここでそれぞれ亮平と朝子はある言葉をお互いに投げかけています。
朝子が「もう亮平に甘えない」、そして亮平が「もう一生お前のことは信じない」でした。