二人の恋愛のすれ違いを時間SFによって表現することで、単なる若者同士の浮いた話に終始させていません。
分かりきっている結末がどれ程つまらなく無意味かをこの涙が最高のインパクトで訴えています。
愛美の視点になった理由
物語はラストで何故か高寿の視点から愛美の視点へと切り替わります。
二人はどう足掻いても結ばれないことを知り、結末も見えているならばこんなシーンは必要ありません。
下手をすれば冗長な表現として物語そのものに破綻を生じさせかねないものだからです。
この視点に変わった理由は果たして何でしょうか?
計算尽くの脚本
まず愛美の視点で強調されていることは彼女の人生が「計算尽くの脚本」であるということです。
既に結末が分かりきっているということは逆にいえばそれを逆手に取って過ごすことも出来ます。
高寿が偶然目にした愛美のメモ帳は正に体験に基づく「人生の攻略本」なのではないでしょうか。
最初から攻略法が分かっている分余計な地雷を踏むことなく生きていくことが出来る最高の手段です。
高寿視点のみだと愛美にとっての高寿との恋がどんなものであるかが分かりません。
そこでこの視点を挟むことで物語をリセットし、俯瞰の目で見ることを可能にしたのです。
女は計算高い生き物
二つ目の理由として、女が本質的に冷静沈着で計算高い現実主義の生き物であることを示すためでしょう。
高寿は愛美との恋愛にロマンを感じ、だからこそ彼女にメモ帳の通りに生きて面白いかと問うのです。
そう、単に生きるだけであったらもっと感情任せに生きてもそれなりの幸せは得られます。
そこで愛美が切なさ・寂しさを感じながらも情に流されないからこそ物語全体が引き締まって見えるのです。
もし二人の内両方共が感情に流されるような生き方をしていればただの切ない恋愛映画で終わったことでしょう。
しかし、情に流されず愛美を計算高く描くことで女という生き物が何たるかをしっかり描いています。
明日という言葉の永遠性
愛美はラストの結末で自身がもう二度と会えない、次に会う時はもう赤の他人だと知っています。
それにも関わらず「また会える?」と聞いてくる高寿に「また明日!」と答えるのです。
この言葉に重みがあるのは「明日」という言葉の永遠性があるからではないでしょうか。
即ちそれは愛美の中から絞り出た嘘偽りのない高寿との恋への永遠なる想いなのだと窺えます。
高寿ともう赤の他人でしかなくなると知りながら、それでも尚恋人であることを願わずにいられない。
それまで脚本通りに演じてきた彼女が最後の最後でその流れから外れた瞬間なのです。
この瞬間を描き出すためにこそ、改めて愛美視点で振り返ったと推測されます。
高寿にとっての最後の日の真意
高寿は愛美に真実を告げられてから自身の行動の全てが彼女にとっての最後の日だと知ります。
彼女にとって計算尽くの脚本だったのに対して、高寿は最後の日をどう捉えていたのでしょうか?
高寿が演じる「最後の日」の真意を考えていきましょう。