その個性がぶつかり合い、陥れたり陥れられたりする様子が分かりやすく描かれているのが映画版の特徴です。
友人間のヒエラルキーが手に取るように分かるストーリー展開ですが、ヒエラルキーのトップにいることと、生き残る強さを持つことは同義ではないのだと感じさせます。
なぜ原作と異なる展開にしたのか
原作ゲームにはこれといって主軸となるストーリー展開がないため、映画化するのに際して小説の世界観はかなり重要視されたはずです。
しかし小説と映画版では見せ方も展開も異なります。これにはどういった理由があるのでしょうか。
集中できるサイズ感
『青鬼』は、約70分程度の短い映画です。これは青鬼をプレイする若年層をターゲットにした現代らしい試みといえます。
Twitterの140文字で情報を得たり、LINEの短いメッセージでリアルタイムにやり取りをする、あるいはTik Tokのような短時間の動画を見て回る世代には、120分以上の映画は好まれない傾向にあるのです。
特に『青鬼』は謎解き要素が多分に含まれているため、集中力を要します。
70分という上映時間は若者世代に受け入れられやすいサイズ感だったといえるでしょう。このサイズを維持するためには次に述べる「インパクト」が重要になってきます。
「感じ取る」より「見て分かる」
映画は、小説で大きな核となっていた青鬼の正体には触れずに制作されました。
もし映画で青鬼の悲しい過去が描かれていたら、観るものの胸を打つ作品にはなり得たでしょう。
しかし青鬼の映画を求めている人々、つまり青鬼のゲームをプレイしたことがある人の多くは、青鬼に「感動」を求めていません。
どこまで逃げても不意をついて現れる青鬼の姿や、登場人物同士の駆け引き、グロテスクな描写といった「目に見える」「分かりやすい」ものにこそ高い需要があるのです。
映画『青鬼』は、複雑な心情描写がなされている小説をベースにしていると思われがちですが、実は原作ゲームに寄せて作られているといえるでしょう。
インパクトやパニック性といった分かりやすさが、この映画のヒットに繋がったのです。
ラストは何を意味する?
実は、シュンは既に死んでおり、冒頭に出てくるダンボールの中身はシュンの遺体でした。
ですから、館に足を踏み入れたシュンは人ならざる存在です。それに気づいたのは、霊感を持つ杏奈ただ一人。
その杏奈だけが逃げおおせるラストシーンに、どのような意味が込められているのでしょうか。
誰でも輝ける場所がある
青鬼に追われて逃げ惑う若者たちの中で、ボスのタケシは我先に逃げようとして真っ先にやられ、美香は敵に取り込まれてしまいます。
力尽きたヒロシは最期の力を振り絞って杏奈を逃がし、食われました。
シュンは自分をいじめていたタケシに対して「敵わない」「勝てるはずがない」と思っていたはづです。
しかし青鬼を前に歯が立たないどころか誰よりも先に逃げたタケシを見て、強さとは何なのか分からなくなったはずです。
気の弱い人間をいじめて楽しむことができても、得体のしれない不気味な力の前では無力な彼ら。こんな人間たちを恐れていたのか、とシュンは内心思ったことでしょう。
ここから読み取れるメッセージは「いじめをすると天罰が下る」という表面的なものではありません。