学校という場所に自分の居場所が見出せず、終盤では問題を起こして退学にまでなりました。
それでもフランソワ先生は決して諦めず見捨てずに最後まで向き合ってくれたのです。
セドゥにとって初めて出来た人生の「恩師」だったからこそこの言葉が出たのでしょう。
カンニングを見逃す理由
本作の批判点の一つにもなっているのが、テストで生徒のカンニングを黙認するフランソワ先生です。
本来であればカンニングは違反であり、場合によってはそれこそ退学にもなりかねない問題でしょう。
そんな違反行為を見逃した理由は一体何なのでしょうか?
学ぶ楽しさを知ってもらうため
まず一つ目が生徒達に学ぶ楽しさを知ってもらうためであり、これはヴィダル監督自身も公言しています。
まず子供の教育において大切なのは自信をつけさせることであり、まずはこのハードルをクリアしないといけません。
どんなにレベルの高い知識や教育もそれがきちんと子供に伝わって身に入らなければ無意味です。
兎に角自信をつけさせる教育をすることがまずは大事であり、実際に上手く行きました。
道中がどうあれまずは結果さえしっかり出せば文句はない、逆に結果が出なければ道中の過程に問題があります。
持ち込み可能な試験もある
カンニングというと世間一般では批判や糾弾の対象となりますが、必ずしも一律で違反になるわけではありません。
というのも大学に入ると一部の試験では持ち込み可能な試験もあり、実質カンニングを容認する試験もあります。
また、仮に試験を受けなくても授業に出ていただけでオッケーとする科目もある位です。
ここから分かるのはペーパーテストは殆どがその場しのぎで終われば綺麗さっぱり忘れているということでしょう。
ましてや学校で勉強せずともパソコンで簡単に調べられる今の時代に単調な知識詰め込みなど非効率的です。
つまりそれ位に学力検査目的のペーパーテストが形骸化しているということではないでしょうか。
情報収集力を鍛えられる
三点目にカンニングには実は仲間同士で知識を持ち込んで共有し情報収集力を鍛えられるメリットがあります。
漫画ですが『NARUTO』の中忍試験は敢えて絶対に解けないレベルの問題を用意し解けないようにしているのです。
その目論見は教師にバレないようにいかに高度な情報収集が出来るかが試されており、カンニングを容認しています。
そう、大人になれば正攻法だけではやっていけず、裏の手を使わないとクリア出来ない壁もあるのです。
そのノウハウをここで身につけさせるという意味では決してカンニングが一概に悪いといえない面もあります。
フランソワ先生もこのカンニングで正攻法によらない教え方を身につけ幅が出たのではないでしょうか。
レ・ミゼラブルに興味を持たせた理由
本作では授業の一環としてフランソワ先生が生徒たちに「レ・ミゼラブル」を読ませます。
この授業が功を奏し生徒たちは興味を持ち始めるのですが、その理由は何だったのでしょうか?
学ぶとは何か?を教えるため
まず「レ・ミゼラブル」自体が大袈裟にいえば「人生」について説いた本だからです。
もっといえば主人公コゼットの貧民からの叩き上げという設定が生徒たちの境遇と共通しています。
経済格差で高い教育を受けられず過ごした日々は時代こそ違えど同じなのです。
その中で生徒たちは「学ぶ」とは何か?の一端を知り、「生きる」と「学ぶ」が線で繋がります。