まず最初に考えられるのはつぐみからまりあ達へ宛てた遺書であるということです。
あの病弱な体で命を削って落とし穴を作る報復は自己犠牲と表裏一体だったのでしょう。
想い出が走馬灯のように駆け巡るという趣旨の内容だったことからも死を覚悟していたと窺えます。
しかし、前述したようにこの報復の裏にあったのは自身を愛してくれた恭一への愛でした。
そのことがより不安や切なさを強調するのです。
悟り
2つ目に手紙を書く中でつぐみは自身を俯瞰した文章を次のように書き綴っています。
私は今までこの弱い体を周囲の人々にやっとのことで支えられながらもヒスをまき散らして、わがままに生きながらえて小娘にすぎなかったということを…
引用:つぐみ/配給会社:松竹
そう、とうとうつぐみは死を覚悟して報復を決意する中で自身の弱さを認めるに至ったのです。
これはもう大人になったという段階を通り越して1つの悟りを開いているようでもあります。
それ位つぐみが苦しみに苦しみ抜いた先に辿り着いた境地だったのではないでしょうか。
その後の自身を振り返った彼女の文章はどこか達観している印象すら感じられます。
夏の想い出を俯瞰する
この手紙の後に主題歌「おかしな午後」が流れますが、これは物語をつぐみ自身が俯瞰しているのです。
そう、この手紙がつぐみからまりあへ渡り、最後につぐみが電話で生き延びたことをまりあに知らせました。
ここでつぐみの視点とまりあの視点が1つに重なり、本作を想い出として昇華したのではないでしょうか。
つまり、この手紙は本作を「物語」として整理をつけるための1つのピリオドだったのです。
だからこそ本作は苦しみや悲しみがありながらも最後に美しい物語としてまとまったと推測されます。
キリスト教とまりあ
さて、最後にもう1つ前述の恭一=天使、つぐみ=悪魔から読み解けることがあります。
それはまりあ=聖母マリアのメタファーであり、本作がつぐみの救済物語であるということです。
恭一という天使=ヒーローが地に落ちた悪魔=つぐみを愛で救うという形になっています。
まりあはあくまでもそれを外側で見て受け止め、見守る存在でしかありません。
だからこそつぐみは1度死と隣り合わせの経験をして、ラストで天使へと生まれ変わるのです。
ラストの笑顔になったつぐみは口は悪いながらもかつてあった刺々しさがなく柔らかくなっています。
それをまりあ視点で俯瞰し受け止める形だから本作が包み込むような優しい物語となったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
本作はごらんの通り単なる甘酸っぱい夏の男女の青春物語でも、病弱な少女の同情話でもありません。
人生をどこかで諦めている節があった少女つぐみが恭一との愛を通して生き直す深い人情物語です。
しかし、それをダイレクトに描くのではなくあくまでもまりあ視点で客観的に俯瞰しています。
その俯瞰の視点があることで青春物語の臭味がなくなり上品で優しい味わいの物語となりました。
何より牧瀬里穂をはじめ各キャスト・スタッフの原作に対する深い理解があればこそ深い共感を得られたのです。